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ビーチ・ボーイズ 『オール・サマー・ロング』

 

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夏はやっぱりビーチ・ボーイズ

 夏といえば海。海といえばビーチ・ボーイズ。短絡的だが夏になると突如ビーチ・ボーイズが聴きたくなる。特にサーフィンやホットロッドをテーマにした初期のアルバムが気分だ。暑いと思考が単純になるようだ。 

 『オール・サマー・ロング』はビーチ・ボーイズの6枚目のオリジナル・アルバムで1964年7月13日リリース。ビルボードで最高4位のヒットを記録した。内容はデビュー当時ほど押し出してないとはいえ、得意とするアメリカの若者のライフ・スタイルをモチーフにしている。

 

 1964年といえば、2月にアメリカ上陸を果たしたビートルズが大旋風を巻き起こし、それを契機にイギリスのアーティストの曲が次々とチャートに入る、いわゆるブリティッシュ・インベイジョンが始まった年である。

 イギリス勢に押され、それまでヒットを連発していたアメリカのトップ・アーティストもチャートから遠ざかる者が少なくなかった。彼らのサウンドはもはや時代遅れとなってしまったのだろうか。

 そんな状況の中ビーチ・ボーイズはイギリス勢に対抗できる数少ないバンドの一つだった。

『オール・サマー・ロング』収録曲

 『オール・サマー・ロング』収録曲を勝手に解説してみる。

「アイ・ゲット・アラウンド」 

 アルバムの冒頭を飾るのは、大ヒット・チューン「アイ・ゲット・アラウンド」だ。

ビートルズ旋風真っ只中勝負に出たこの曲は意外なことにビーチ・ボーイズ初の全米 No.1 ヒットである。タイトル通りの曲調で、マイクのリード・ボーカルにブライアンのファルセット・ボイスが絡んでいく傑作ポップ・ソングだ。イギリスのアーティストには決して作れない底抜けの明るさは、ブリティッシュ・インベイジョンに対する、アメリカからのお返しか。ビーチ・ボーイズが初めて1位を獲得したのも偶然ではなかったのかもしれない。

「オール・サマー・ロング」

 フェイドアウトしていく「アイ・ゲット・アラウンド」に続くシロフォンのイントロが小気味いいアルバムのタイトル・ナンバー

 フランシス・コッポラの青春映画『アメリカン・グラフティ』のエンディングで流れたこともあり、いつ聴いても感傷的な気分にさせられるビーチ・ボーイズの傑作バラード。若い頃、洋楽の歌詞ってさっぱり分からず聴いていたけれど大人になって改めて歌詞を読んでみると、二度と戻れない”あの頃”の一コマを見事に表現されていた。マイク・ラブ、見かけによらずピュアな詩を書くんだなぁと。そしてタイトルが「オール・サマー・ロング」なんて。

 「ハッシャバイ」 

ブライアンのファルセットが冴えわたるこの曲は、意外なことにブライアンのオリジナルではなく、ミスティックスの1959年のヒット曲のカバー。この時期のブライアンはいくらでも名曲が書けただろうが、多忙過ぎてカバー曲を収録しなければ間に合わなかったのだろうか。しかしカバーとは言えビーチ・ボーイズのヴァージョンはミスティックスを超えた出来映えなのではないか。

「リトル・ホンダ」

本田圭佑選手じゃなくてアメリカでバカ売れしたホンダ製のスーパー・カブのことを歌ったナンバー

バックで”honda,honda~"とコーラスまで入るホンダ推しの内容。まるでCMソングみたいだがタイアップではなくビーチ・ボーイズが勝手に制作したようだ。この曲はその名もズバリ、ホンデルズ(The Hondells)というグループがカバーして大ヒットした。

「ウィル・ラン・アウェイ」

この曲もブライアンのバラード・ナンバー。やや抑えめのファルセットのためか落ち着いた印象を受ける。

「カールのビッグ・チャンス」

あまりビーチ・ボーイズっぽくないインスト・ナンバー

「ウェンディ」

あまりメジャーな曲じゃないけれど初期の名作のひとつ。コーラス・グループとしてのビーチ・ボーイズの魅力が存分に発揮されている必聴のバラード。完成度が高いだけに間奏部の咳払いがどうにも気になる。歌詞はフラれた男の愚痴と悪あがき。

「覚えているかい」

マイクがリードボーカルの軽快なロックン・ロール。自分たちが影響を受けてきたロックン・ロールへのオマージュ。突然ジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」のフレーズが飛び込んできたりする。

「浜辺の乙女」

これぞ”ビーチ・ボーイズ”という感じのいかにもな一曲。

朝から海に入って、昼食後にもうひと泳ぎ。午後2時過ぎた頃、程よく疲れたしそろそろ帰り支度でも始めるか。

そんなある夏の午後の風景が、なぜかこの曲を聴くと浮かんでくる。

「ドライブ・イン」

マイクがリードを取るこれまたビーチ・ボーイズらしいアップ・テンポの一曲。初期のビーチ・ボーイズはブライアンのバラードとマイクのロックン・ロールがいい感じで並立していたグループだったのだと思わせる。

「楽しいレコーディング」

初期のビーチ・ボーイズのアルバムにはいくつかこういうお遊び的なトラックが収録されているが、個人的には必要なし。現在なら初回特典のボーナス・ディスク用という感じ。

傑作アルバム

『ペット・サウンズ』が傑作であることに異論はない。しかし、それはそれとしてこの『オール・サマー・ロング』もまた傑作と言っていいのではないか。

ライブアンがレコーディングに凝りまくる直前のナンバーはいい意味で聴きやすく、タイトル、ジャケットも含めて青春時代の普遍的なイメージを完璧に表現している。『ペット・サウンズ』とは違う方向だがとても良いアルバムだと思う。これぞヒット曲を連発していた初期ビーチ・ボーイズの集大成だろう。

 

ブリティッシュ・インベイジョンに押され気味のアメリカのアーティストが、イギリス勢には決して作れないような内容のアルバムを発表したところ、海の向こうの新しいサウンドに夢中だったアメリカの若者がそれを熱狂的に支持した。

このアルバムの成功はそんなところだろうか。しかし誰よりも新しいサウンドに影響を受けたアメリカ人はブライアン・ウィルソンその人だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ローリング・ストーンズ 「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」

「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」 ローリング・ストーンズ

 
 「夜をぶっとばせ」はローリング・ストーンズ12枚目のシングルとして1967年1月13日にリリースされた。

ジャック・ニッチェのピアノが印象的な軽快なロックンロール・ナンバーで全英チャート3位のヒット。この時期ストーンズは1位を連発してるのでこの曲もナンバーワン・ヒットだと思っていたんだが。

 ところで邦題の「夜をぶっとばせ」ってマイク越谷氏が付けたらしいが洋楽邦題史上抜群のネーミングだろう。ずっと昔『BLOW THE NIGHT 夜をぶっとばせ』という映画を観たせいで「夜をぶっとばせ」の原題は「Blow The Night」だと長いことだが思い込んでいた。個人的に勘違いだらけだが初期ストーンズの代表曲のひとつだろう。

 

 「夜をぶっとばせ」がリリースされた1967年にはブリティッシュ・インヴェイジョンの波も落ち着いたが、ヒットチャートを賑わすアーティストの顔触れはこの3年ですっかり様変わりしてしまって、アメリカン・ポップスの終焉を感じさせる。ニール・セダカポール・アンカの時代は過去になってしまった。

 

 一方で空前のバンド・ブームで若者たちの注目を集めたイギリスは、'60年代中頃からスウィンギング・ロンドンと呼ばれポップ・カルチャーの中心地となる。ヴィダル・サスーン、マリー・クワント、ツィギー、新しいスターや流行が続々と現れた。

 ロック・スターも新たに誕生したスターだ。中でもローリング・ストーンズミック・ジャガーは特別な存在だった。当時まだ23歳のミック・ジャガーはロンドンで刺激に満ちた日々を存分に楽しんでいた。

 

 
Rolling Stones LIVE - "Let's Spend The Night Together" TOTP '67

 

「ルビー・チューズデイ」


 ストーンズのソングライター、ジャガー・リチャードのも今や3曲の全米No.1を持ついっぱしのヒット・メーカーで、ふたりの書く曲はもはやリズムアンドブルースやロックンロールの枠にとらわれないほど多彩なものに進化していた。

 「夜をぶっとばせ」ももちろんジャガー・リチャードコンビの作であり、ふたりのオリジナルでは珍しくもないことだが、歌詞が性的な意味を連想させる内容のため、ラジオ局がオンエアを自粛する可能性があった。

 それを見越してアメリカでは本来B面の「ルビー・チューズデイ」と両A面扱いでリリース。予想通りラジオ局は「ルビー・チューズデイ」を集中的にオンエアしたので、アメリカでは「ルビー・チューズデイ」のほうがヒットし3月4日付けで1位を獲得。

 こっちも当然ジャガー・リチャードのオリジナルであり、ブライアンのリコーダーが非常に効果的にフィーチャーされたバラード・ナンバー。数多いストーンズのバラードの中でも今も高い人気を誇るナンバーである。

 

エド・サリバン・ショー 歌詞差し替え

 

 1967年2月にストーンズエド・サリバン・ショーに5回目の出演を果たしている。エド・サリバン・ショーの初主演は1964年10月だが、その際司会のエド・サリバンは「もう2度と彼らをショーに出演させない」と激怒していたものの、結局ストーンズ人気に負けてたびたび出演させていた。

 ただこの日の2曲目「夜をぶっとばせ」の歌詞にダメ出しする。「Let's Spend The Night Together」の「The  Night」の歌詞を「Sometime」に変更を指示。「The  Night」を「Sometime」に変えるのがどれほどの意味があるのかイマイチぴんとこないが、そこが引っかかるならそもそもタイトル自体がアウトじゃないのか。

 これをしぶしぶ受け入れたミックが目をクルクルさせながらやや不明瞭に「Sometime Together」と歌ったのは誰もが知るところ。

 同じ年にドアーズが出演した時も「ハートに火をつけて」の歌詞が引っかかりやはり変更を要求された。ところがリハーサルではおとなしく従ったものの、生放送の本番時にはオリジナルの歌詞で歌ったため、ドアーズはエド・サリバン・ショー永久追放にとなった。

 ここがミック・ジャガージム・モリスンの違いだろう。やりたい放題やってるようでいて実はしっかり管理しているミック、そんな彼の感覚がストーンズ長期運営の大きな要因じゃないだろうか。一方でこういう計算高さがミックが嫌われるところでもある。

 

 レコードではジャック・ニッチェが弾いてたピアノはショーではブライアンが弾いてる。ほとんど横向きの引きの映像で何度かアップで抜かれてもそっぽを向いたままで、長い髪が顔にかかって表情もよく分からないのが惜しい。しかし圧倒的なオーラと存在感はまぎれもなくリードボーカリストに匹敵するほどである。

 

試練の始まり


 1967年の6月1日にはビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」リリース。16日から3日間カリフォルニアでモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催、25日にはビートルズが新曲「愛こそはすべて」のレコーディングを世界中に生放送。若者たちは数万単位で集会を開き愛と平和とロックとマリファナに酔いしれていた。アメリカを中心にサマー・オブ・ラブと呼ばれる社会現象が巻き起こりカウンター・カルチャーはひとつのピークを迎えた。

 

 ストーンズも時代の空気を思い切り吸って転がり続けていたが、ついに逆風が吹きはじめる。まるで今まで奔放な言動で保守的な人たちを挑発して困惑させて調子に乗ってたツケが回ってきたかのように。1967年、ストーンズの周りの様々な問題が顕在化していく。 

GRRR! ~グレイテスト・ヒッツ 1962-2012 <デラックス・エディション>

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日本で最初の磁器 伊万里焼の歴史

 

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 日本の工芸品はさまざまな分野で、中国や朝鮮を主とした諸外国からの影響を古代から受けながら発展してきた。その影響は単なる模倣で終わらず、日本人特有の繊細な感性や技術力を持って、時にはオリジナルを超えるような見事な作品を生み出している。今回は外国からの多大な影響を受けて成立し、やがて輸出品として外国から高い人気を得た、伊万里焼について考察する。

 

 16世紀が終わる頃まで日本には磁器の製造技術がなく、国内の磁器は中国からの輸入に頼るしかなかった。しかし豊臣秀吉文禄・慶長の役によって、大名たちは朝鮮半島から多くの陶工を連れて帰り、彼らから貴重な技術がもたらされた。その中の一人、李参平が有田の泉山で磁器の原料の陶石を見つけ、磁器の焼成に成功した。日本の磁器の歴史はここに始まる、というのが定説だが、実際はもう少し早く製陶が開始されていたようである。いずれにしてもこの秀吉の朝鮮出征は別名「やきもの戦争」と呼ばれているように、日本の陶芸界にとって革命的なことであった。

 

こうして1610年代日本で最初の磁器の制作が開始されたが、まだまだ技術的にも拙く、様式は朝鮮や中国・景徳鎮の模倣の域を出ていなかった。しかし急速に発展した伊万里焼はやがて中国製の磁器の代わりに海外でも重用されていく。

伊万里焼とは伊万里で作られた磁器だけを指すのではなく、有田焼を主とした、伊万里港から積み出された磁器の総称である。

1610年代~1640年代にかけて「初期伊万里焼」と呼ぶ。この時代の伊万里焼はまだ発展途上にあり、特徴は素地が厚く高台は皿の直径の三分の一であったので三分の一高台と呼ばれる小さく仕上げも粗い。染付けは呉須が高価なため面積は狭く色も若干薄めである。しかしこれらの未熟な点も欠点とはいえず、かえって素朴な味わいをだしている。絵付けは中国の影響が濃厚で、中国の絵手本に習ったものが見られる。初期伊万里の「染付け山水文大鉢」は中国風でありながら、中国ほどかたい表現でなくやわらかな筆さばきで描かれている。

 

1640年代には技術革新が行われ、それまで作れなかった色絵磁器の製造技術を得た。濃厚な色彩と大胆な意匠を特徴とする「古九谷様式」と呼ばれるものである。これは国内の富裕層をターゲットにして大いに流通した。古九谷は大きく三つに分けられる。景徳鎮窯で焼かれた「祥瑞」という磁器の影響を受けた赤を主体とした「南京手」、器全体を緑、紫、群青の釉薬で覆う鮮烈な印象を持つ「青手」、白い素地を残し色調は緑・黄・紫・群青・赤の「五彩手」とがある。古九谷様式を代表する重要文化財「色絵蝶牡丹図大鉢」は白地を多く残す五彩手の磁器で、中国絵画の影響を受けた花と蝶が力強く描かれたインパクトのある作品である。

その頃磁器の本家中国では明から清へと王朝の交代に際し、国内は混乱していた。そのため中国製の磁器は外国の需要に対応することができなくなっていた。一方景徳鎮を手本にしてきた日本の磁器の技術は大きく進歩していた。中国から思うように磁器が手に入らなかったため、東インド会社伊万里焼に注目し1650年代後半、大量に買い付けをしてヨーロッパに輸出を始める。日本国内に向けて作られた「古九谷」に対して、ヨーロッパの市場用に作り出されたのが「柿右衛門」である。「柿右衛門」の東洋趣味はヨーロッパで大変な人気を博し、17世紀後半伊万里焼は全盛期を迎える。

柿右衛門」として有名であるが、すべて柿右衛門個人の仕事ではなく、何人もの有田の陶工たちの手によって完成された様式であるため「柿右衛門様式」と呼ばれる。特徴は乳白色の素地に赤を主調とした中国絵画風の絵付けが施された洗礼された磁器である。さらに17世紀末には技術の進歩で純白に近い素地が作られるようになり、最高級品の磁器として制作された。大胆で力強く描かれ、同じ絵柄がほとんど見られない「古九谷様式」の磁器に比べ「柿右衛門様式」の磁器は、商品としての性格が強い。これはヨーロッパの需要に対応するため同じ品質で大量に製作する必要があったからである。

頂点を極めた伊万里焼は17世紀末「金襴手」の製作を始める。「金襴手」は中国明代の嘉靖年間に流行した中国金襴手を手本として成立した、金彩を使用した豪華絢爛な様式の磁器である。完成度が高く国内外の富裕層にもてはやされたが、特に華美な装飾を好むヨーロッパの王侯貴族から絶大な人気を得た。

 

このように日本初の磁器伊万里焼にはいくつか形式があるが、いずれも中国の影響受けて確立した。その後試行錯誤を重ねて日本的な繊細な色絵磁器に到達し、日本オリジナル製品として認められた。しかし海外で揺るぎない地位を築いたように見えた伊万里焼だったが、景徳鎮の輸出再開により激しい価格競争がおき、その結果1757年にオランダ東インド会社への輸出は停止する。

こうして盛期伊万里焼の時代は終わり、以降は国内に目を向けざるしかなく、庶民の食卓にも磁器が浸透していく。

また大名や将軍家に献上するために作られた高級磁器「鍋島焼」は、1670年代に大川内山に窯を開いた。以後も製陶の技術を受け継ぎ、現在も伊万里焼の中心地である。

ブライアン・ウィルソン 神のみぞ知る

 ブライアン・ウィルソンは1942年6月20日カリフォルニア州イングルウッドで生まれホーソーンで育った。弟や従兄と一緒にビーチ・ボーイズを結成し、1961年「サーフィン」でレコード・デビュー。以後数多くの自作曲でヒットを連発、あっという間にトップ・グループへと成長した。リーダーで担当はボーカルとベース。デビュー以来50年以上経た今も、現役で活躍するミュージシャンである。

 オリジナル・メンバーのデニスとカールは実弟マイク・ラブは従兄、アル・ジャーディンは同級生。ウィルソン・フィリップスのカーニーとウェンディは実娘。

悲運のブライアン

内気な少年

ビーチ・ボーイズのイメージとは裏腹に、ブライアンはサーフィンなんかしたこともないどちらかといえば内気な少年で、外へ遊びに行くよりも自分の部屋で音楽を聴く方が好きなインドア派だった。フォー・フレッシュメンやハイ・ローズなどのジャズ・グループのコーラスワークに夢中になったブライアンは、やがて弟たちを誘い込んでコーラスの練習に熱中していく。デビュー前にすでにあの美しいハーモニーマスターしていたという。

 当時西海岸で流行し始めたサーフィンの歌った曲がなかったので、次男デニスがサーフィンを題材にした曲をリクエスト、マイクが作詞、ブライアン作曲の「サーフィン」を共作。新たにグループに加入したブライアンのハイスクール時代の友人、アルのアイデアで「サーフィン」を自費でレコーディング。ローカル・レーベルながらビーチ・ボーイズはレコード・デビューを果たす。

 

 記念すべきデビュー・シングルが完成した時、いきなり不幸が降りかかる。当時グループはペンドルトーンズと名乗っていたが、出来上がったレコード・レーベルにはレコード会社が勝手に名付けた「THE BEACH BOYS」とクレジットされていた。作り直す余裕もなかったので不本意ながら彼らはビーチ・ボーイズとしてデビューした。

 自分の意志が入ってないバンド名でデビューしたのも気の毒だったが、この名前からくるイメージとブライアンの実像とのギャップがさらなる苦悩に連なっていく。

「サーフィン」はマイナー・ヒット。グループのマネージャーになった兄弟の父親マーリーは大手のキャピトル・レコードと契約。バンド名の件はさておき順調なスタートを切った。

 

「サーフィンU.S.A」 ブレーク

1963年メジャーに移って2枚目のシングル「サーフィンU.S.A」が大ヒット、デビュー通算3枚目で早くもブレイクした。「サーフィンU.S.A」の印象が強すぎたのか、日本では「ココモ」がヒットするまで、ビーチ・ボーイズはとっくに解散した「サーフィンU.S.A」の一発屋だと思ってる人も多かったんじゃないだろうか。皮肉な話である。

 その後もビーチ・ボーイズは絶好調に見えたが、コンサート・ツアーとレコード制作にテレビ出演、過密なスケジュールに曲作りのプレッシャーも重なり、ブライアンの精神は徐々に崩壊していく。

 1964年早々アメリカの音楽界に大事件が起こる。ビートルズの訪米だ。2月7日ビートルズがニューヨークのケネディ空港に降り立つと興奮はピークに達した。このニューヨークをブライアンがどんな思いで見ていたか分からないが、ビートルズの活躍はブライアンをさらに追い詰めたようだ。

 この年の12月移動中の飛行機内で、肉体的にも精神的にも疲労が限界に達したブライアンはパニックになり突然ツアー不参加を宣言し帰宅してしまう。リーダーなのに準メンバーというような妙なポジションになる。

 


Beach Boys - Surfin Usa (Live, 14 March 1964)

 

ブライアンの苦悩

 以降レコーディングに専念することになるのも「ブリティシュ・インベイジョン」でアメリカで人気が出てきたイギリスのミュージシャンの影響も感じる。

 ビートルズのライバルといえばローリング・ストーンズという図式があるが実際はそうでもなく、特にポール・マッカートニーが最も意識していたのは2日遅く生まれたブライアンだった。年も同じで、ベーシストでソングライター。共通点の多い二人は互いに影響しあっていた。

 ブライアンがステージを退いてからの最初のアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥデイ』は重要なアルバム。完全に自由に制作できたわけではないが、スタジオ・ワークに専念して生まれた曲はサーフィン・ホットロッド時代の終焉を感じさせた。

 次の『サマー・デイズ』はより進化したブライアンの世界が表現されているが、『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥデイ』でブライアンの音楽性の変化を感じ取ったキャピトル・レコード側から「もっとビーチ・ボーイズらしい曲」の要請があった。自分のやりたい音楽とビーチ・ボーイズのパブリック・イメージとの葛藤がタイトルやジャケットから見て取れる。

 相変わらずレコードはヒットしているが自分の音楽が理解されないことに思い悩むブライアンの悲運は終わらない。

 

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創作の転機

 1965年12月 ビートルズは6枚目のオリジナル・アルバムを『ラバー・ソウル』をリリース。ビートルズにとってもターニング・ポイントとなったアルバムの内容にブライアンは強い衝撃を受ける。自分もパーティーやレジャーのB.G.Mじゃなくじっくり聴き込むようなアルバムを作ろうと、名作『ペット・サウンズ』を制作する。

 

 ブライアン渾身のアルバム『ペット・サウンズ』は1966年5月16日リリース。全米10位にランクされたが、メンバーがツアー中にバッキング・トラックをブライアンとセッション・ミュージシャンでレコーディングをしてしまったほとんどブライアンのソロ・アルバム。

それまでのビーチ・ボーイズのアルバムとかけ離れたサウンドにアメリカでの評価はイマイチで、「ビーチ・ボーイズらしい曲」を期待していたキャピトル・レコードは、なんと2ヶ月後の7月、ベスト・アルバム『ザ・ベストオブ・ザ・ビーチ・ボーイズ』をリリース。ブライアンの不幸はこのアルバムが勝負作『ペット・サウンズ』を上回るミリオン・ヒットになってしまったことだろう。メンバーやレコード会社の正当性が証明された結果となった。ファンは底抜けに明るいカリフォルニアの空と海を待っていたのだ。繊細なブライアンの精神はさらに病んでいく。常習しているドラッグが拍車をかけた。

 一方イギリスでは本国アメリカと違い、『ペット・サウンズ』は大いに受け入れられ大ヒットとなっていた。中でもポール・マッカートニーは高い完成度に驚愕した。1990年に再発売されたCDのライナー・ノーツでもアルバムを絶賛している。特に「神のみぞ知る(God Only Knows)」は高い評価でもっとも好きな曲のようだ。

 今度は逆に『ペット・サウンズ』を目指してビートルズは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のレコーディングを開始する。

 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は翌年の6月にリリース。世界中で大ヒットするだけじゃなく、ロック界隈以外からも大絶賛され時代を代表するアルバムと位置づけられた。

精神の崩壊

 ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をレコーディングしていた時期、ブライアンは『ペット・サウンズ』に続くアルバムをレコーディングしていた。次回作は『スマイル』の予定で、レコーディングはさらに複雑になっていった。ブライアンの精神状態は回復しないまま進められていたが、強いプレッシャーについにブライアンは崩壊。レコーディングは中断され、発売が待たれていた『スマイル』は最も知られた未完成のロック・アルバムになった。

 ノイローゼを発症したブライアンはその後も時々ビーチ・ボーイズに参加するような形で、完全復活までに20年も待たなくてはならない。

『青春の蹉跌』 石川達三

全共闘世代の青春小説

 

 『青春の蹉跌』は1968年発表された石川達三の小説。実際に起こった事件を参考にされている。まさに一人の青年の「青春」の「蹉跌」を描いた作品。実際に起こった事件をモデルにしたと言われる。

 1968年は世界中で学園運動がピークを迎えてきており、運動は暴力的になっていった頃である。作中でも学園運動の話が出てくるが、いかにも全共闘時代らしい重くて暗い雰囲気、少々古臭さも感じる。それだけに当時大ヒットしたというのもうなずける。 

 しかし主題は現代でも通用するものだと思われるので、時代背景を今風にアレンジして映像化すれば面白い作品ができるかもしれない。

 

 著者の石川達三は『蒼茫』で第一回芥川賞を受賞している。この賞が欲しくてたまらなかった太宰治は受賞を逃すと逆ギレし、選考委員の川端康成を「刺す」とまで思ったというのは有名な話。

 

あらすじ

 

 私大の法学部に通う江藤賢一郎はアメリカン・フットボール部に所属する頭脳明晰で成績優秀な学生だ。学生運動とは距離を置き、司法試験合格を目指し勉強中である。

 貧しい家庭に生まれた賢一郎は何が何でも勝ち組の人生を歩んでいきたいのだ。

 努力の甲斐あって在学中に試験に受かった賢一郎に、資産家の伯父・田中栄介の娘康子との縁談が持ち上がる。康子と結婚できたら、将来はより約束されたものになる。野心的で打算的な賢一郎の理想の人生まではあと一歩。

 

 頭はいいが金銭的に恵まれていない賢一郎は、家庭教師をして収入を得ていた。教え子だった大橋登美子が短大に合格してから二人は恋人のような間柄になる。

 この早熟な元教え子と関係を持った賢一郎だが、自分のキャリアに何のメリットもない登美子に対して愛情はない。身近な女性に手っ取り早く手を出しただけの遊び相手以上の感情はない。

 一方で登美子はまんざらでもないようでなんだかんだ接触してくる。あくまで康子と一緒になって出世を狙う賢一郎にとって登美子の存在が次第に疎ましくなった。早いとこ関係を切ろうとするが・・・。

 

身勝手な秀才 

 

 自らの出世の妨げになるようなエリートの話といえば森鴎外の『舞姫』を思い出したのだが、本編の主人公は『舞姫』の主人公・太田豊太郎のような迷いが一切ない。

 豊太郎もエリスに対してずい分冷たい仕打ちだと思ったが、賢一郎の身勝手ぶりはそんなもんじゃない。

 秀才が陥りやすいことなのか、周囲の人たちを常に見下しているのだ。すでに妻子がいるのだが、司法試験に落ち続けている従兄や運動をやってる同世代の学生たちを内心ではみくだす。

 成績はいいのかもしれないが、自分だけが選ばれた人間だと勘違いして他人への思いやりがまたっくない。勝手な理屈で何も自分の都合のいいように考える。

 もしかしたらそのキャラクターは豊太郎というより『デス・ノート』の夜神月に近いのかもしれない。

 

  あまりの身勝手さに腹が立つほどなのだが、なぜか賢一郎にシンクロする瞬間もあり、出世の道の邪魔になる要素に苛立つ気持ちも理解できる。

 場面によっては登美子にも鬱陶しさをかんじるが、実は彼女もかなり打算的なところがあって、最後には驚愕の大どんでん返しが用意されている。

 

 その他の登場人物で本命の康子も恋人というより出世の道具くらいに考えているのか存在感がない。が、将来有望でヴィジュアルもイケてる賢一郎に満足している彼女もこれまた打算的である。

 そして一番の味方である賢一郎の母親は息子のために生きてるような女性でいつも息子の幸せだけを願っているが、皮肉にもその強い思いが息子を追い詰めていく。

 

現代の蹉跌

 

 『青春の蹉跌』は若い頃誰もが感じるような不安と過信をエリート候補の賢一郎の視点で描いた青春小説の傑作だろう。物語は悲劇的な結末を迎えるが、身勝手な賢一郎に腹を立てながらも共感するところも多いのではないだろうか。

 舞台設定は古いが、現代の若者にも訴える部分があるだろうし、読み物として十分楽しめるだろう。できれば若いうちに読みたい一冊である。 

『オン・ザ・ロード(On The Road)』 路上の人生

放浪 ビート・ジェネレーション

 

 『路上(On The Road)』はビート・ジェネレーションの名付け親、ジャック・ケルアックの自伝的小説。登場人物の多くが実在の人物で、主人公のディーン・モリアーティのモデルはニール・キャサディ。サル・パラダイスはケルアック自身がモデル。その他ウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグ等、ビート・ジェネレーションの作家が登場する。

 

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ボニーとクライド 『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』

俺たちに明日はない

 

 『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』は1967年に制作されたアメリカ映画。アメリカン・ニュー・シネマの最初の1作。

 1930年代大恐慌時代に実在した銀行強盗のカップルの出会いから死までを描いた犯罪映画。

アーサー・ペン監督作品。主演はウォーレン・ベイティフェイ・ダナウェイ

 

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『源氏物語絵巻』と『信貴山縁起絵巻』 

平安時代の絵画

 平安時代に生み出された高級貴族の邸宅である寝殿造りは、内部を細かく区切らず広い空間を持つのが特徴のひとつである。そのためそこでは仕切りや防寒の必要から襖や屏風などが多用された。そしてこの広い平面を有する襖や屏風を飾り立てるための絵画が発展した。

 

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ザ・フー 年寄りになる前に死にたいぜ

  イギリス3大バンド

  ロジャー・ダルトリーピート・タウンゼントジョン・エントウィッスルキース・ムーンを擁するイギリス最古のロック・バンドのひとつザ・フーは、ビートルズローリング・ストーンズと並んでイギリス3大バンドのひとつと称される偉大な存在だ 。

 

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