キンタメ

distractions ~ディストラクションズ 気晴らしブログ~

音楽、映画、漫画などの昔のネタを気ままにマイペースでやってるブログです。

江戸の天才浮世絵師 葛飾北斎の生涯

 

 江戸時代、1600年代後半に誕生した浮世絵は、浮世の風俗を描いて江戸の庶民の間で流行し、その後明治の末頃まで制作され、現在でも日本を代表する美術品として海外でも高い評価を得ている。その数多い浮世絵師の中から最も人気のある一人、葛飾北斎の生涯を辿ってみたい。

 

 

 

 北斎が活躍した18世紀後半から19世紀半ばは、浮世絵の後期にあたり、同時期に活躍していた浮世絵師には、「東海道五十三次」の歌川広重などがいるが、絵師としての活動は70年にも及んだため、美人画喜多川歌麿や役者絵の東洲斎写楽とも重なる。それだけ長い画業生活を送ったため、北斎は生涯で2万~3万の作品を描いたといわれ、錦絵や肉筆画だけでなく挿絵や絵本など多岐にわたっている。画風も一つに固執せず常に新しい技法に挑み続け、亡くなる直前まで創作意欲は枯れなかったようである。

 

 江戸の天才絵師、葛飾北斎は1760年9月、現在の墨田区亀沢で生まれた。1778年浮世絵師の勝川春章の門下に入り、浮世絵以外の画法も学んだ。翌年春朗の号で画壇デビューを果たし、絵師としての長い人生を歩きはじめる。 

この春朗時代に中国や西洋の技法を学び、役者絵や美人画だけでなく、名所絵など多くの作品を手がけた。しかしまだ北斎独特の個性は見られず、数ある浮世絵師の中の一人、といった感じである。

 その後勝川派を破門になった北斎は1795年、琳派一門の俵屋宗理を襲名する。破門は狩野派の画風を学んだためともいわれるが、宗理時代は新たな画風で制作している瓜実顔スマートなプロポーションで描かれた美人画は「宗理美人」と称され、歌麿などと肩を並べるほどの人気を博した。また以前はあまりなかった肉筆画の制作も見られる。

 

 俵屋宗理の号を弟子にゆずった北斎は次に北斎辰政、画狂人北斎を名乗り、1805年葛飾北斎となる。北斎は北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰していたことから「北斎」の号にしたという。北斎は長い絵師生活のなかで頻繁に改号しており、細かいものまで入れると30回ほど改号している。現在親しまれている「葛飾北斎」という号もわずか十年足らずの短い期間の使用であったが、「北斎」という号に限ると最も長期見られるため、「葛飾北斎」が定着したようである。それにしても驚くほどの短さだ。

 すでに40代半ばになっていた北斎だが、創造力はますますの高まりを見せ、肉筆画はさらに多作になり、他に読本挿絵に傑作を残した。流行作家曲亭馬琴の人気には、北斎インパクトのある挿絵が大きく貢献したようである。

 

 50歳を越えた北斎はまたも改号し「戴斗」と称するようになる。この戴斗時代に北斎は絵手本に乗り出し、1814年頃から代表作の一つ「北斎漫画」の制作を開始する。以来絵手本を描き続け、最終的に「北斎漫画」は15巻にも及ぶ長いシリーズになった。 

 フランスの版画家ブラックモンは陶器を包んだ紙に描かれていた「北斎漫画」に強く惹きつけられ、印象派の画家たちにこれを紹介した。これがきっかけとなりジャポニズムの流行が巻き起こった、という伝説があるように北斎は西洋絵画に大きな影響を与えた。

 

 画号「為一」とは1820年、還暦を迎えた北斎が初心に立ち返るべき名乗ったようである。60歳になっても、定年退職どころか未だ上り坂の途中のような仕事ぶりで、この時期錦絵の連作もいくつか手がける。

 

 北斎の最高傑作というだけでなく、浮世絵を代表する傑作「富嶽三十六景」シリーズは為一期1831年に完成する。葛飾北斎の代表作として世界的にも人気の高い「富嶽三十六景」が北斎期の作品ではないのが面白い。

 この日本人なら誰もが知っている富士山を描いた一連の作品は、北斎が70歳前後の作品であったのだ。信じがたいバイタリティーである。錦絵とは木版画のことで、版元、絵師、彫師、摺師の共同作業によって制作される。去年開催した、東京国立博物館北斎展では「凱風快晴」の初摺りと後刷りが展示されていて、二枚の違いが木版画の性質をとても分かりやすく伝えていたと思える。

 

 最晩年、80歳を過ぎても北斎は進化を続けた。「画狂老人卍」という画号には衰えを知らない北斎の、執念のようなものすら感じさせる。北斎は画号をよく変えたが、住居も頻繫に変えている。引っ越しは意外とエネルギーを使うものだが、あえて環境を変えることで過去の形に固まらず新鮮な気持ちで制作に取り組めたのであろう。

 この頃錦絵から遠ざかり、肉筆画が主な作品になっていった。主題も浮世絵本来の風俗画ではなく、和漢の故事古典や宗教がなどへ移っていった。1849年死去する際に北斎は、「あと5年生きられたら真の絵師になれる」と語ったそうだが、まさに死の直前まで芸術に対する情熱は消えることなく、芸術にすべてを捧げた一生だったといえる。

 

 

葛飾北斎は江戸末期人気を博した浮世絵師であり、現在でも高い人気を誇っている。しかし明治時代に入った頃、庶民の娯楽に過ぎない浮世絵は見捨てられていった。一方で海外では芸術作品として高い評価を得続け、重要な作品が多数海外に流出していった。

 北斎の海外での地位は、1999年に米ライフ誌が調査した「この1000年で最も重要な業績を残した人物100人」の中で日本人では唯一人選ばれた件を聞くと、想像以上に高いようである。そこまでではないかもしれないが、日本でも近年高い評価を得、さらに年々上がっていくように見受けられる。

 日本が工業製品以外で世界に誇れる北斎や浮世絵を、日本人自身が今後もより正当に評価し大切に守っていくべきである。しかし多くの浮世絵は、今となってみれば紛失や破損など取り返しのつかないことになってしまったのは残念なことである。