下山事件 戦後最大の未解決事件
下山事件とは
下山事件は1949年(昭和24年)7月5日朝、出勤途中の初代国鉄総裁・下山定則が失踪。翌6日午前0時30分頃、常磐線五反野ガード下の線路上で轢死体となって発見された。
自殺、他殺、両方で捜査されたが、殺人事件としては公訴時効が成立しており未解決の事件である。
時代背景
事件が起きた1949年は冷戦期で、アメリカとソ連の対立はアジア諸国にも多大な影響を与えていた。中国国民党と中国共産党との間で大戦直後から続いていた内戦はソ連が支援する共産党が勝利して、10月に中華人民共和国が建国された。
前年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の樹立で分断国家となった朝鮮半島も緊張が高まっていた。
財閥などの弱体化に利用する目論見でGHQは共産主義を容認する政策を行ってきたが、想定以上の共産主義の伸長に脅威を感じたアメリカは占領政策を民主化路線から転換せざるを得なくなった。
日本経済の再生と安定を目指してこの年実施されたドッジ・ラインでは復興のための徹底的な人員整理も含まれていた。特に左派が掌握する国鉄労組は大量の解雇を要請されていた。
下山総裁の使命
下山定則が初代総裁として課せられたのは、スムーズに事が運ぶとは到底思われない人員整理を成し遂げることだった。3万人以上に上る第一次整理通告を行った翌日、下山総裁は失踪する。
下山事件で自殺説、他殺説、どちらの説もこの背景を根拠としている。
最終的に10万人もの職員に解雇を通達しなければならない重責に精神的に追い込まれ自ら命を絶ったという見方の一方、解雇をめぐり労組側と対立しており急進的な組合員に殺害されたとの見方で割れていた。
事件の概
7月5日の行動
下山が機関車に轢かれたたのは7月6日午前0時30分頃だったので、5日はほとんど事件当日といって差し支えないだろう。その5日の朝、前日の大仕事の疲れは見えず、朝食もしっかり食べて、いつものように迎えの車に乗って家を出た。
車中で突然下山は日本橋の三越に寄るように指示するが、まだ開店時間前だったため今度は神田駅に向かった。神田駅に着いても車から降りず、次は銀行へ車を走らせた。
銀行には20分以上滞在した後、最初の目的地三越へ向かった。
この日の下山の行動には謎だらけだ。出社もせずに一体なにをしていたのだろう、一連の行動はそれほ重要な意味があったのか、すでに自死を決意していてまともな状態じゃなくなっていたのだろうか。
下山総裁 最後の姿
三越に着くと下山は「すぐ戻るからちょっと待っててくれ」と運転手に言い残し店内に入って行った。これを最後に下山は姿を消し、いくら待っても二度と運転手の元には戻ってこなかった。
下山が三越に着いた頃、すてに国鉄では姿を見せない下山のことは騒ぎになっていた。この大事な時に総裁が何の連絡もなく出社しないのはおかしのではないか。自宅に連絡するといつも通り家を出ている、心当たりに問い合わせても分からない。これはただ事ではないと下山の秘書は午前11時前には警察に下山の行方が分からないと電話をかけている。
その後の下山についてはいくつもの目撃情報が寄せられたが自殺に見せかけるための替え玉工作の可能性があり、確実な下山本人の姿は三越で確認されたのが最後で、その時下山は数人の男と一緒だった。
午後になっても行方は分からず、警察は内々に捜査を開始、午後5時公開捜査に切り替える。国鉄の総裁が東京のど真ん中で突如消息を絶ったことはたちまち大きなニュースとなった。三越前で下山をまち続けていた運転手はこのニュースを夕方車のラジオで知って驚いたそうだが、「すぐ戻る」と言った下山が数時間戻って来ないことに何も思わなかったのだろうか。
7月6日 未明
7月6日午前0時を少し過ぎた頃予定より遅れて田端駅を出発した869号貨物列車は遅れを取り戻そうとスピードを上げていたが、常磐線北千住‐綾瀬間の五反野ガード付近で何かを轢いた感触があったが暗闇の中確認できず、そのまま走り去った。直後に通過した松戸行の最終電車の運転手が線路上の血液に気付き綾瀬駅の職員に伝え、職員たちが現場に向かい遺体を発見した。
遺体は分断されて持ち物と一緒に周囲に散乱しており、その中に複数枚の下山の名刺があった。遺体は夕方から大騒ぎになっている行方不明の国鉄総裁のかもしれないと慌てて警察に連絡した。
この頃下山邸には多くの国鉄関係者が集まっていた。連絡を受けた関係者は真夜中車で現場へ向かった。一行が到着する頃には遺体は下山ということはほぼ確定し、朝一番のラジオのニュースで報じられた
不可解な事件
事件の謎
事件直後から世間は自殺説他殺説入り乱れて話題になる大ニュースだったが、真相はさておき、初めから殺人事件だという印象操作があったように思われる。
占領下政策のドッジ・ラインを断行し時の人となった下山の突然の死を、政府とGHQは政治利用する思惑があったためだ。
さらに遺体を解剖した東大法医学教室の古畑種基教授が死後轢断と判断し、遺体は轢かれた時にはすでに絶命していたため他殺を主張したことが他殺説を後押しした。
国鉄三大ミステリー事件
三鷹事件
下山事件の10日後の7月15日、国鉄三鷹駅の車庫から無人の車両が突然暴走。時速60キロで車止めに激突し脱線。そのまま横転して線路脇の運送店に突っ込んだ。死者6名、負傷者20名の大惨事となった。
事件は国鉄労組組合員の共産党員9人と非党員1人の犯行として逮捕・起訴した。しかし1年後の1950年8月、非党員1人を除く9人に無罪判決が出た。有罪となった1人は死刑判決が確定した。無罪を訴え続けたが1967年獄死した。現在は残された家族が控訴中だ。
松川事件
さらに三鷹事件の1ヶ月後の1949年8月17日、福島県で東北本線松川‐金谷川間を走行中の上野行上り列車が脱線転覆事故を起こした。
先頭の機関車が脱線転覆、後続の車両5両が脱線する大事故で、機関車の乗務員3名が死亡した。
現場視察によるとレールの継ぎ目板が外されボトルや犬釘も抜かれていて、長さ25メートルのレールが1本外され移動されていた。付近には犬釘を抜くのに使われたバールが捨てられていた。
事件は大量解雇に反対する国鉄と東芝松川工場の組合員の犯行と見られ、別件で逮捕された元国鉄線路工の自供により国鉄・東芝の組合員20人が次々逮捕された。組合員の大多数は共産党員でもあった。
またこの事件も1963年9月に被告人全員の無罪判決が確定した。
1958年には被告側弁護団の1人に真犯人を名乗る人物から手紙が届いた。手紙の内容から真犯人の信ぴょう性は高いと考えられたが真相は分からず、事件は未解決のまま幕を閉じた。
事件の影響
戦後、大衆に強く支持された左派勢力は、1947年日本社会党が第一党となった。1949年1月の総選挙では共産党の議席数が4から35へと大躍進した。しかし一連の事件が共産党員の主導といった疑惑が持たれたために左派勢力は一気に弱体化した。
GHQと政府の思惑通りに事が運んだ。
自殺説 VS 他殺説
事件は、警視庁捜査一課、慶応大学法医学教室、毎日新聞は自殺と断定して事件を終わらせようとした。10万人解雇の重圧に最近の下山は精神的にかなり追い詰められており、前日の第一次整理通告でついに限界となり自殺に至ったと、下山の妻も口にしている。
しかし一方で、警視庁捜査二課、東京大学法医学教室、朝日新聞は他殺と見立てていた。決定的な自殺の決め手があれば事件はあっさり終わっていたのかもしれないが、他殺説を支持する彼らの執念深い調査によって、GHQや政府、共産主義者について多くの謎が浮き上がった。
事件の終焉
もし下山は殺害されたとしても事件は1964年に時効になり、警察は自殺と結論して捜査は終わった。
しかしその後も他殺を信じる人たちは独自に調査を続け新しい情報や事件直後の証言の矛盾を見つけ出す。それは単なる与太話とは思えない説得力を持って迫ってくる。やはり下山総長は殺されたのだろうか。事件について知れば知るほど判断が難しい。
結局本当の事は今も解明されていないし、すでに事件から70年近く経過してしまっては今後もないだろう。下山事件、三鷹事件、松川事件の真相は闇の中、これからも「国鉄三大ミステリー事件」として語られていくのだろう。
ただ事件の真相はなんであれ、実際に事件は起こり多くの人が亡くなったのはまぎれもない事実である。