1969年のローリング・ストーンズ
問題山積みの ローリング・ストーンズ
1963年のデビュー以来ヒット曲を連発してキャリアを築いてきたローリング・ストーンズは、その華やかなさの反面いくつかの問題を抱えていた。それは当時成功を収めた多くのバンドが直面していた、金と人間関係の問題だった。
急速に拡大したロック・マーケットは莫大な利益を生み出し、その金を目当てにわけのわからない人間が群がってききた。
世間知らずな若いアーティストたちはカモにされ、言葉巧みに不利な契約を結んで、後々問題になることもよくある話だった。
アラン・クレイン登場
1965年、ストーンズは音楽業界ではよく知られたアラン・クレインというアメリカ人をマネージャーに迎え入れ、クレインの手腕でレコード会社から巨額の契約金を手にした。
それはビートルズもびっくりの額だったらしく、この一件は後にクレインがビートルズのマネージャーに就任に大きな影響を与えたと思われる。
数字に強いクレインは契約書を細かくチェックし未払い金を見つけ出しレコード会社からその金を振り込ませるなど、アーティストのためにきっちり仕事をした。しかしアーティストに儲けを渡す一方で契約以上に自分の利益をコッソリ抜くような男だったのである。そんな強引で強欲なやり方のため敵も多く、あちこちで揉め事を起こし悪名を轟かせていた。
67年『サタニック・マジェスティーズ』のレコーディング中にもう一人のマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムが嫌気がさしストーンズと袂を分かつ。
クレインが単独でマネジメントするようになると、金銭関係に細かいミック・ジャガーは不信感を持ち始め、徐々に両者の関係が深刻になっていく。
問題児 ブライアン・ジョーンズ
ローリング・ストーンズの創設者でリーダーのブライアンは類い稀なる音楽的才能を持ち、初期ストーンズ・サウンドに多大な貢献をしてきたが、レノン・マッカートニーコンビに倣ってミックとキースが二人で作曲を始め、世界中でヒットを連発させるとバンド内の力関係が変化が生じた。
曲を作るミックとキースがサウンドのイニシアティブを取るようになり、ストーンズはブライアンが理想とするブルース主軸のバンドからロック・バンドへと移行していった。ブライアンは曲作りの才能に恵まれなかったことが致命的だった。自分が結成したバンドなのにどうすることもできないブライアンはドラッグに溺れていく。
同時にブライアンは女性問題も抱えていた。ブライアンと恋人のアニタ・パレンバーグは誰もが憧れるようなカップルだったが、ブライアンの奔放な女性関係とアニタへの暴力が原因で二人は壊れかけていた。
1967年2月、ミックやキースも同行したモロッコへの旅行中に関係は最悪になり、見るに見かねたキースはアニタを連れてブライアンの元から離れ、そのまま二人は付き合い始める。
バンドのイニシアティブを奪われ、恋人と友人を同時に失った傷心のブライアンに追い打ちをかけるように、麻薬所持で逮捕される。ほとんど自業自得って気もするが彼の心中は察するに余りある。
ストーンズの問題児ブライアンの破滅的な生き方ははバンド運営の足を引っ張るようになっていった。
決断の時
ブライアンの裁判が終わるとストーンズはニュー・アルバム『ベガーズ・バンケット』のレコーディングをスタートするが、ブライアンの状態はひどく なる一方で自殺の恐れもあると診断されるほどに。
アルバムの冒頭の「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景はジャン・リュック・ゴダール監督の映画『ワン・プラス・ワン』で記録されており、この当時のブライアンの様子が確認できる。映画の中のブライアンはだいぶ弱っているように見え、実際スタジオに入ってもまともな演奏をほとんどできなかったようで、彼のパートはほとんどキースが弾いている。
その上ブライアンは逮捕が原因でアメリカのビザが取得できず、現状ではコンサート・ツアーの同行が困難となっていた。レコーディングにもツアーにも支障をきたすブライアンの処遇を決断する時がいよいよ訪れたのだろうか。
バンドはニューアルバム『ベガーズ・バンケット』の発売に際して今度はレコード会社と対立。ストーンズが用意したジャケット・デザインを「汚らしい」からと突っぱねた。ストーンズ側もいろいろ妥協案を出すがデッカ側は受け入れず、結局ジャケットを差し替え、当初より4ヶ月遅れでリリースとなった。一連の出来事にストーンズのデッカに対する不信感が決定的になった。
歴史に「もし」はないが、もし『ベガーズ・バンケット』が予定通りリリースされていたらどうだったか。ビートルズの『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』より先に世に出ていたら、2枚のアルバムの評価は今日とは違っていたかもしれない。想像するのは面白い。
ブライアンは精神的にも肉体的にもバンドを続けるのは難しいと思われ、ツアーを計画しているストーンズには足手でしかなかった。1969年6月初旬、ミック、キース、チャーリーはブライアンの家に行きついに解雇を言い渡した。
後にキースはこの時のブライアンは「クスリでイカれていて何が起きてるのか理解できなかった」と言っいるが、本当に理解できていなかったのだろうか。もの凄いショックで呆然としてただけとか。
さらに上を目指して
一方、最初は歓迎されたアラン・クレインの強引な手法は結局メンバーの信頼を得られず、両者の関係は崩壊した。金に汚い野心家のアラン・クレインを嫌っていたミックは彼を解雇しるが、転んでもただは起きないアランはストーンズを相手にただちに訴訟を起こした。
数年後アランはビートルズとの関係も悪化させ法廷闘争に持ち込み、ビートルズは裁判に明け暮れることになる。アラン・クレインは確かにヤリ手なのかもしれないが敵に回すとかなり厄介なタイプである。
関係は回復されずデッカ・レコードとの契約の更新はしないことになったが、満了するにはデッカにあと一曲必要だった。ミックはとても正規にリリースできないような卑猥な曲を渡しデッカとの契約を終了させ、自分たちで立ち上げたローリングストーンズ・レコードからのリリースを開始する。
ほとんど嫌がらせと思われるデッカへの行為だが、デッカ時代の音源の権利をアラン・クレインの会社が手に入れたこともひとつの理由であろう。
今思うと1969年はストーンズにとって大きなターニングポイントだったと思われる。
きっとこの時ミックはブライアン・ジョーンズ、アラン・クレイン、デッカ・レコードとの関係を断ち切り、新生ストーンズとしてさらに上を目指すと強い決意をしていたのだろう。