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日本で最初の磁器 伊万里焼の歴史

 

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 日本の工芸品はさまざまな分野で、中国や朝鮮を主とした諸外国からの影響を古代から受けながら発展してきた。その影響は単なる模倣で終わらず、日本人特有の繊細な感性や技術力を持って、時にはオリジナルを超えるような見事な作品を生み出している。今回は外国からの多大な影響を受けて成立し、やがて輸出品として外国から高い人気を得た、伊万里焼について考察する。

 

 16世紀が終わる頃まで日本には磁器の製造技術がなく、国内の磁器は中国からの輸入に頼るしかなかった。しかし豊臣秀吉文禄・慶長の役によって、大名たちは朝鮮半島から多くの陶工を連れて帰り、彼らから貴重な技術がもたらされた。その中の一人、李参平が有田の泉山で磁器の原料の陶石を見つけ、磁器の焼成に成功した。日本の磁器の歴史はここに始まる、というのが定説だが、実際はもう少し早く製陶が開始されていたようである。いずれにしてもこの秀吉の朝鮮出征は別名「やきもの戦争」と呼ばれているように、日本の陶芸界にとって革命的なことであった。

 

こうして1610年代日本で最初の磁器の制作が開始されたが、まだまだ技術的にも拙く、様式は朝鮮や中国・景徳鎮の模倣の域を出ていなかった。しかし急速に発展した伊万里焼はやがて中国製の磁器の代わりに海外でも重用されていく。

伊万里焼とは伊万里で作られた磁器だけを指すのではなく、有田焼を主とした、伊万里港から積み出された磁器の総称である。

1610年代~1640年代にかけて「初期伊万里焼」と呼ぶ。この時代の伊万里焼はまだ発展途上にあり、特徴は素地が厚く高台は皿の直径の三分の一であったので三分の一高台と呼ばれる小さく仕上げも粗い。染付けは呉須が高価なため面積は狭く色も若干薄めである。しかしこれらの未熟な点も欠点とはいえず、かえって素朴な味わいをだしている。絵付けは中国の影響が濃厚で、中国の絵手本に習ったものが見られる。初期伊万里の「染付け山水文大鉢」は中国風でありながら、中国ほどかたい表現でなくやわらかな筆さばきで描かれている。

 

1640年代には技術革新が行われ、それまで作れなかった色絵磁器の製造技術を得た。濃厚な色彩と大胆な意匠を特徴とする「古九谷様式」と呼ばれるものである。これは国内の富裕層をターゲットにして大いに流通した。古九谷は大きく三つに分けられる。景徳鎮窯で焼かれた「祥瑞」という磁器の影響を受けた赤を主体とした「南京手」、器全体を緑、紫、群青の釉薬で覆う鮮烈な印象を持つ「青手」、白い素地を残し色調は緑・黄・紫・群青・赤の「五彩手」とがある。古九谷様式を代表する重要文化財「色絵蝶牡丹図大鉢」は白地を多く残す五彩手の磁器で、中国絵画の影響を受けた花と蝶が力強く描かれたインパクトのある作品である。

その頃磁器の本家中国では明から清へと王朝の交代に際し、国内は混乱していた。そのため中国製の磁器は外国の需要に対応することができなくなっていた。一方景徳鎮を手本にしてきた日本の磁器の技術は大きく進歩していた。中国から思うように磁器が手に入らなかったため、東インド会社伊万里焼に注目し1650年代後半、大量に買い付けをしてヨーロッパに輸出を始める。日本国内に向けて作られた「古九谷」に対して、ヨーロッパの市場用に作り出されたのが「柿右衛門」である。「柿右衛門」の東洋趣味はヨーロッパで大変な人気を博し、17世紀後半伊万里焼は全盛期を迎える。

柿右衛門」として有名であるが、すべて柿右衛門個人の仕事ではなく、何人もの有田の陶工たちの手によって完成された様式であるため「柿右衛門様式」と呼ばれる。特徴は乳白色の素地に赤を主調とした中国絵画風の絵付けが施された洗礼された磁器である。さらに17世紀末には技術の進歩で純白に近い素地が作られるようになり、最高級品の磁器として制作された。大胆で力強く描かれ、同じ絵柄がほとんど見られない「古九谷様式」の磁器に比べ「柿右衛門様式」の磁器は、商品としての性格が強い。これはヨーロッパの需要に対応するため同じ品質で大量に製作する必要があったからである。

頂点を極めた伊万里焼は17世紀末「金襴手」の製作を始める。「金襴手」は中国明代の嘉靖年間に流行した中国金襴手を手本として成立した、金彩を使用した豪華絢爛な様式の磁器である。完成度が高く国内外の富裕層にもてはやされたが、特に華美な装飾を好むヨーロッパの王侯貴族から絶大な人気を得た。

 

このように日本初の磁器伊万里焼にはいくつか形式があるが、いずれも中国の影響受けて確立した。その後試行錯誤を重ねて日本的な繊細な色絵磁器に到達し、日本オリジナル製品として認められた。しかし海外で揺るぎない地位を築いたように見えた伊万里焼だったが、景徳鎮の輸出再開により激しい価格競争がおき、その結果1757年にオランダ東インド会社への輸出は停止する。

こうして盛期伊万里焼の時代は終わり、以降は国内に目を向けざるしかなく、庶民の食卓にも磁器が浸透していく。

また大名や将軍家に献上するために作られた高級磁器「鍋島焼」は、1670年代に大川内山に窯を開いた。以後も製陶の技術を受け継ぎ、現在も伊万里焼の中心地である。