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ローリング・ストーンズ 「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」

「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」 ローリング・ストーンズ

 
 「夜をぶっとばせ」はローリング・ストーンズ12枚目のシングルとして1967年1月13日にリリースされた。

ジャック・ニッチェのピアノが印象的な軽快なロックンロール・ナンバーで全英チャート3位のヒット。この時期ストーンズは1位を連発してるのでこの曲もナンバーワン・ヒットだと思っていたんだが。

 ところで邦題の「夜をぶっとばせ」ってマイク越谷氏が付けたらしいが洋楽邦題史上抜群のネーミングだろう。ずっと昔『BLOW THE NIGHT 夜をぶっとばせ』という映画を観たせいで「夜をぶっとばせ」の原題は「Blow The Night」だと長いことだが思い込んでいた。個人的に勘違いだらけだが初期ストーンズの代表曲のひとつだろう。

 

 「夜をぶっとばせ」がリリースされた1967年にはブリティッシュ・インヴェイジョンの波も落ち着いたが、ヒットチャートを賑わすアーティストの顔触れはこの3年ですっかり様変わりしてしまって、アメリカン・ポップスの終焉を感じさせる。ニール・セダカポール・アンカの時代は過去になってしまった。

 

 一方で空前のバンド・ブームで若者たちの注目を集めたイギリスは、'60年代中頃からスウィンギング・ロンドンと呼ばれポップ・カルチャーの中心地となる。ヴィダル・サスーン、マリー・クワント、ツィギー、新しいスターや流行が続々と現れた。

 ロック・スターも新たに誕生したスターだ。中でもローリング・ストーンズミック・ジャガーは特別な存在だった。当時まだ23歳のミック・ジャガーはロンドンで刺激に満ちた日々を存分に楽しんでいた。

 

 
Rolling Stones LIVE - "Let's Spend The Night Together" TOTP '67

 

「ルビー・チューズデイ」


 ストーンズのソングライター、ジャガー・リチャードのも今や3曲の全米No.1を持ついっぱしのヒット・メーカーで、ふたりの書く曲はもはやリズムアンドブルースやロックンロールの枠にとらわれないほど多彩なものに進化していた。

 「夜をぶっとばせ」ももちろんジャガー・リチャードコンビの作であり、ふたりのオリジナルでは珍しくもないことだが、歌詞が性的な意味を連想させる内容のため、ラジオ局がオンエアを自粛する可能性があった。

 それを見越してアメリカでは本来B面の「ルビー・チューズデイ」と両A面扱いでリリース。予想通りラジオ局は「ルビー・チューズデイ」を集中的にオンエアしたので、アメリカでは「ルビー・チューズデイ」のほうがヒットし3月4日付けで1位を獲得。

 こっちも当然ジャガー・リチャードのオリジナルであり、ブライアンのリコーダーが非常に効果的にフィーチャーされたバラード・ナンバー。数多いストーンズのバラードの中でも今も高い人気を誇るナンバーである。

 

エド・サリバン・ショー 歌詞差し替え

 

 1967年2月にストーンズエド・サリバン・ショーに5回目の出演を果たしている。エド・サリバン・ショーの初主演は1964年10月だが、その際司会のエド・サリバンは「もう2度と彼らをショーに出演させない」と激怒していたものの、結局ストーンズ人気に負けてたびたび出演させていた。

 ただこの日の2曲目「夜をぶっとばせ」の歌詞にダメ出しする。「Let's Spend The Night Together」の「The  Night」の歌詞を「Sometime」に変更を指示。「The  Night」を「Sometime」に変えるのがどれほどの意味があるのかイマイチぴんとこないが、そこが引っかかるならそもそもタイトル自体がアウトじゃないのか。

 これをしぶしぶ受け入れたミックが目をクルクルさせながらやや不明瞭に「Sometime Together」と歌ったのは誰もが知るところ。

 同じ年にドアーズが出演した時も「ハートに火をつけて」の歌詞が引っかかりやはり変更を要求された。ところがリハーサルではおとなしく従ったものの、生放送の本番時にはオリジナルの歌詞で歌ったため、ドアーズはエド・サリバン・ショー永久追放にとなった。

 ここがミック・ジャガージム・モリスンの違いだろう。やりたい放題やってるようでいて実はしっかり管理しているミック、そんな彼の感覚がストーンズ長期運営の大きな要因じゃないだろうか。一方でこういう計算高さがミックが嫌われるところでもある。

 

 レコードではジャック・ニッチェが弾いてたピアノはショーではブライアンが弾いてる。ほとんど横向きの引きの映像で何度かアップで抜かれてもそっぽを向いたままで、長い髪が顔にかかって表情もよく分からないのが惜しい。しかし圧倒的なオーラと存在感はまぎれもなくリードボーカリストに匹敵するほどである。

 

試練の始まり


 1967年の6月1日にはビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」リリース。16日から3日間カリフォルニアでモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催、25日にはビートルズが新曲「愛こそはすべて」のレコーディングを世界中に生放送。若者たちは数万単位で集会を開き愛と平和とロックとマリファナに酔いしれていた。アメリカを中心にサマー・オブ・ラブと呼ばれる社会現象が巻き起こりカウンター・カルチャーはひとつのピークを迎えた。

 

 ストーンズも時代の空気を思い切り吸って転がり続けていたが、ついに逆風が吹きはじめる。まるで今まで奔放な言動で保守的な人たちを挑発して困惑させて調子に乗ってたツケが回ってきたかのように。1967年、ストーンズの周りの様々な問題が顕在化していく。 

GRRR! ~グレイテスト・ヒッツ 1962-2012 <デラックス・エディション>

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