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ポール・マッカートニー 日本公演

 

ポール・マッカートニー 日本公演  今昔

ポール・マッカートニーの最新ツアー、フレッシュン・アップの日本公演が10月31日から東京ドームでスタートした。現在もツアーは続いておりポールは日本に滞在中である。76歳とは思えない充実した内容のパフォーマンスを繰り広げている。

しかしいつの間にやらポールのジャパン・ツアーも今回で7回目ということだ。30年くらい前まではポールやローリング・ストーンズのコンサートを日本で観るなんてほぼ絶望的だった。毎年のように日本に来てくれる最近のポールをみているとなんだか信じられないような話だ。当時はジュリー演じる主人公が個人で原爆を作り「ローリング・ストーンズの日本公演」を実現しろと政府を脅迫するような映画(『太陽を盗んだ男』)が制作されるような時代だったのだ。主人公の要求にきっと当時の若者は共感できたのだろう。

 

70年代のポール日本公演の顛末

 ビートルズが解散するとポールは新しいバンドウイングスを結成。このバンドでビートルズ中期以降やらなくなったツアーを開始した。70年代半ばにはビートルズに匹敵するほどに成長したウイングスのライブを日本で観たいというのは当然の流れだった。

1973年、すでにチケットが発売されていたがストーンズの日本公演が中止に。さらに75年にはウイングスの公演がチケット発売直前に中止になった。多くの日本人が待ち望んでいたにもかかわらずコンサートが行われなかったのは、彼らの大麻に関しての前科が原因だった。アルコールにはおおらかだが大麻には厳しかった日本政府が入国を許可しなかったためである。

しかしポール側も日本のファンもコンサートの実現をあきらめなかったようで、75年の中止から4年を経て、再び日本公演が決定する。今回は直前に中止になることはなく、1980年1月16日ポール・マッカートニー御一行は日本にやって来た。

 

一転、悪夢へ...

熱狂的な歓迎の中、今度は無事入国したと誰もが思っただろうが、お祭り気分は一瞬で悪夢となった。ビートルズの来日から13年半、待ちに待ったポールがついに日本に来たというのに、なんとスーツケースの中の大麻が発見されその場で逮捕されてしまった。コンサートは全日程キャンセルされ、ポールは実際に留置されてしまった。今度こそポールのステージを生で観覧するという日本のファンの夢は幻と化した。

ポール逮捕の報にすぐに取材に駆けつけた池上彰氏とポールが一緒に写った一枚が最近の池上さんの人気に伴ないあちこちで紹介されているがポールから見たらいい迷惑かもしれない。

そもそも過去の大麻の件がネックになり入国許可がなかなか下りなかったポールだけに、今回の逮捕の影響は大きく今後日本に来ることは絶望的になった。

 事件の後ウイングスは活動を休止したが、ポールはソロ・アルバム『マッカートニーⅡ』をリリース。シングル「カミング・アップ」とともに大ヒットとなり見事に復活した。勢いに乗ったポール次のアルバムの制作に取り掛かるが、その矢先の1980年12月8日、ジョン・レノンが暗殺されてしまった。悲しみのあまりポールはすべての活動をストップさせてしまった。翌年4月にはウイングス結成時からの重要なメンバー、デニー・レインが脱退を表明。ウイングスは事実上解散した。

 

ポールの80年代

ポールの70年代はビートルズの解散から始まったが、80年代はジョンの死とウイングス解散から始まったと言ってもいいだろう。

 決別した後もポールの中ではジョンは永遠のパートナーであり、いつかまた共演、共作する日が来ると思っていたのではないだろうか。そのジョンが亡くなってしまった今、ポールは共作者を探し始める。「エボニー・アンド・アイボリー」ではスティービー・ワンダー、「ガール・イズ・マイン」「セイ・セイ・セイ」ではマイケル・ジャクソンと組んで制作に臨んだ。同時に中年になったポールはビートルズだった過去も肯定的に受け入れられるようにもなりプロデュースをジョージ・マーティンに依頼してもいる。これらの曲はいずれも記録的なヒットとなったが、すでにスティービーもマイケルもポールに引けを取らないスーパースターであったため、一連の作品はポールが”新たなパートナー”と制作したというより”スーパースター同士の夢の競演”といったスポット的な作品なのであった。

次いでポールが共作者に選んだのは10ccのエリック・スチュワートだった。エリックはスティービーやマイケルと違い本格的な共作者としてアルバム制作にたずさわった。1986年に発表された『プレス・トゥ・プレイ』はエリックと共作したことで新しいポール・サウンドを聴かせてくれるとのことだったが、一般的な評価は高くなく、セールスも過去にないほど低迷した。ビートルズのデビュー以来四半世紀、ずっとトップを突っ走ってきたポールのキャリアに陰りを感じさせる時がきたのだった。

80年の日本公演の中止以降のポールは、デビュー以来初めてソロ・アーティストとして活動していた。作品制作のたびに共作者はいるものの継続した間柄ではなく、バックのメンバーもその都度集めていた。そのような環境のためポールは長い間ツアーに出ておらず、この時期ポールのライブは単発のチャリティーコンサートなどに限られられていた。その中のひとつ1986年6月の「プリンス・トラスト・コンサート」は今後のポールにとって重要なものになった。しばらくステージから遠ざかっていたポールは「プリンス・トラスト・コンサート」に出演したが、その時ステージの楽しさや興奮を完全に思い出したという。重要なのはこの体験がステージ復活の原点であり、89年からのワールド・ツアーに繋がっていくのである。

 

復活!ポール・マッカートニー

ツアーは行わないとはいえ、アルバム制作には意欲的なポールはいまだ共作者を求めていた。新たなるパートナーに選んだのはひと回りも年下のエルビス・コステロだった。相手が天下のポール・マッカートニーだろうがダメなものには遠慮なくダメ出しするコステロに、ポールはジョンを思い出したと言っている。また彼からヘフナーのベース・ギターの使用をさかんに勧められ、実際にヘフナーでレコーディングしている。コステロが自分の意見をはっきり口にすることが功を奏し、完成したアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は1989年6月にリリース。前作の不評を払拭する高い評価を得た。傑作アルバムを手土産にポール・マッカートニー復活、というムードが漂った。

 

ワールド・ツアー始動

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さらにポールはニュー・アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を引っさげてワールド・ツアーも復活させた。ツアーは1989年9月26日ノルウェーオスロから始まった。

久しぶりのツアーだった上にセット・リストの半数がビートルズの曲が占めたため、コンサートは各地で熱狂的に迎えられた。もちろん多くの日本のファンはこのコンサートを今度こそ日本で観たいと願っていた。しかし前回の逮捕が尾を引いて来日は相当厳しいということらしい。

ところで1989年という年は、解散が噂されたいたローリング・ストーンズが新作『スティール・ホイールズ」をリリース。夏には8年ぶりとなるワールド・ツアーをスタートさせていた。

奇しくも入国許可が下りない二大アーティストが同時期にツアーを始動させたのである。当然ストーンズの来日公演の期待も高まっていった。80年代が終わろうとしている中、日本ではストーンズやポールの日本公演実現のための署名運動も起こり、注目を集めた。

個人的にはアタマの固い日本政府が許可するとは思えなかったので日本公演はサッサとあきらめて海外で観ることにした。ポールが観れるなら日本でもアメリカでもどっちだっていいやって気持ちだった。アメリカのコンサートは観客のノリが日本とは全然違うのに少し驚いたが、より非日常感が増し興奮と感動で忘れがたい体験だった。

 

祝!ポール来日

帰ってきて聞かされたのは、なんとポール・マッカートニーの日本公演が決定したとのニュースだった。まさか本当に許可が下りたのか。ほぼあり得ないと思ってアメリカまで行ったが、その間に急展開したのか。仮に本当だとしてもポールの場合過去の件もあるし実際ライブが始まるまでどうなるか分からないから手放しで喜べない。二度あることは三度あるとも言われるし。とか思いつつも結局はポールの来日を心待ちにしていたのである。

遂に、1990年2月28日、今度こそ本当に成田空港に到着したポール・マッカートニーが日本に入国したのだった。

そして3月3日、日本人の長年にわたる夢だったポールのコンサート・ツアーの幕が上がった。

 

 

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