キンタメ

ロックと日本語

日本語ロック黎明期

 

日本人アーティストのロック・ミュージックというのも普通に聴かれるようになって久しい。そもそも今の若い世代は「このバンドがやってるのはロックか否か」なんてことは考えずに聴いているのだろう。いいと思った音楽をジャンルなんか関係なく聴くことは健康的だと思う。今はみんな音楽に変なこだわりも持たずにいろいろな曲を手軽に聴けるいい時代になった。

 

しかし今から50年近く前ロックが誕生してまだ日が浅かった頃、黎明期だった日本でははアンダーグランド的な特別なジャンルだったようだ。

1966年ビートルズの来日を機に多くの日本の若者も海外のロックをじゃんじゃん聴くようになった印象だったが、実際には洋楽ファンはあまりいなかったようで、ほとんどは歌謡曲やフォーク、GS等を好んで聴いていた。

 

当時の記事などを読むと確かにロック・ファンはマイノリティで音楽の話ができるクラスメートがいないなんて人も多かった。それだけにどこか選民思想のようなものが感じられる。

当時は、ロック=反体制 みたいな考え方もあったので、例えロックをやってたとしてもアーティストが酒もドラッグもやらず早寝早起きの健康的な生活をしていたとしたらそんな奴の音楽はロックと認めてもらえなかったのかもしれない。

 

GSブームが去った後、人気グループだったタイガース、スパイダース、テンプターズのメンバーが集まり本格的なロック・バンド「P・Y・G」を結成したが、ステージに立つとロック・ファンから物を投げられ罵声を浴びせかけられたそうだが、これはすでに芸能界で成功しているメンバーが大手芸能プロからデビューしたのにロック・バンドを名乗ったのが気に入らなかったからだろう。まさに音楽そのものじゃなくアーティストのバック・ボーンを重要視した一例だろう。

なんだか頑固でめんどくさそうな聴衆である。森高千里が「おじさん」って呼ぶわよと切り捨てたのはこういった人達だったんだろう。たぶん。

 

ロックを日本語で

 

日本人がロックをやる時おそらく一番大きな壁は言語だと思われた。英語圏で生まれたロックを日本語で再現するのは土台無理な話ではないのか。という時代だった。

 

日本人になじみの薄いアメリカのバンドの影響が強い先進的な日本のバンド、はっぴいえんどで作詞を担当していた松本隆は日本語をロックに乗せることに挑んでいた。サウンド志向の強い細野晴臣大瀧詠一はあまり賛成ではなかったようだが彼らの試みは大きな成果を挙げ「日本語ロックの第一人者」と称されるようになった。

この流れに日本語のロックはナンセンスという「ロックは英語派」アーティストが「日本語模索派」に物申し「日本語ロック論争」が巻き起こった。

 

「新宿プレイマップ」1970年10月号誌上では内田裕也大瀧詠一鈴木ヒロミツといった今じゃ考えられない面子で座談会をやっていてロックに対する考え方をそれぞれがはっきり主張している。

「ロックは英語派」の内田は日本にロックを持ち込んだ張本人という自負があるようで日本には日本語でロックを土着させようとする大瀧の意見が面白くなにかとイチャモンをつけている。一方大瀧は自分達がやりたい音楽を追求できれば他所のバンドにはあまり関心がないようで座談会ではあるが両者にはずい分温度差があるように感じる。しかし大瀧も喧嘩腰の内田に対して「でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか」と言って内田をキレさせてもいる。

パッション先行型の内田は、ロックだって興行的に成立させることを優先する現実的な鈴木にもダメだししている。晩年は人のいい明るいおじさんタレント的なキャラでテレビ出演していた鈴木ヒロミツだが対談時はバリバリのミュージシャンだったらしくジョン・レノンを彷彿させるビジュアルだったとは。

 

みんな言ってることは間違ってはないのだろうがロックとの向き合い方がまったく違うため「日本語ロック論争」ははっきり答えが出ないままだらだら続いていった。

 

フォーク・ソングのヒット

 

結局ロックは日本語でやれるのか。この問題はそれぞれの考え方があるからきっと正解はないのだと思う。しかし1971年11月に発表されたはっぴいえんどの『風街ろまん』は「日本語ロック」のひとつの到達点と評されしばらく続いた論争もフェイドアウトしていった。

 

この時代はロックに限らずフォークも反体制・反商業主義が求められた。そんな中強いメッセージがなく個人的なことを歌う吉田拓郎は異端でありジョイント・コンサートなどではPYGと同じように物が飛んできたり歌が聞こえないほどのブーイングを浴びた。

この時代の若者はなんでこんなに思考が凝り固まっているのか。せっかくコンサートに来たら楽しめばいいのに。それともこれが彼らなりの楽しみ方だったのか。

 

しかし72年春「結婚しようよ」が大ヒット、続く「旅の宿」もオリコン1位を獲得。吉田拓郎は一躍スターとなった。

政治的な匂いがしないフォーク・ソングのヒットは学生運動の終焉と重なり新しい時代の到来を告げた。またロックと違いアコーステック・ギター1本あれば誰でもすぐにできるフォーク・ミュージックは一気に浸透して多くの拓郎フォロワーを生み出した。

 

フォーク・ソングが続々とリリースされたが、同じ頃ロックの方はどうしていたのか。

今や伝説のバンドとなっている頭脳警察村八分など新しい世代が活躍していたが、一部で熱狂的に支持されていただけで一般の知名度はほとんどなかったと思われる。やはり日本のロック・バンドはメジャーにはなれないのか。

 

キャロル登場

 

吉田拓郎ブームの72年末、ロック・バンドのキャロルがデビューする。日本のポップ・ミュージック史の中でキャロルの登場はひとつのエポックだろう。

 

「日本語ロック論争」でぶつかり合ってた主張とはまったく別のアプローチで日本語ロックを提示してきたのだ。彼らのロックはもはや英語とか日本語とかにこだわる必要はないように感じさせる。というか彼ら自身言語の垣根を取っ払っていたんじゃないだろうか。

その詩は基本日本語だが所々英語詩が出てくるという今では普通の手法だが、おそらく当時は画期的な詩作だったろう。中心人物の矢沢永吉ジョニー大倉は曲作りで優先したのは詩の内容よりリスナーの耳にどう響くかだったろう。

実際大倉は著書の中でデビュー曲「ルイジアンナ」を英語で作詞してから日本語にしたと言っている。曲名にしてもルイジアナではなく敢えてルイジアンナにしたらしい。また歌唱法についても日本語も英語みたいに聞こえるように矢沢に注文したそうだ。

このようにかなり意識的に生み出された英語と日本語チャンポン・ロックは「日本語ロック論争」を過去のものにして、新たな「日本語ロック」の出発点だったともいえるのではないだろうか。

 

キャロルは音楽性だけでなく、時代錯誤なファッションや矢沢の強烈なキャラクターも相まって音楽ファンからはバカにされていたという話も聞くが、大きな功績を残したバンドだった。

矢沢は現在にいたるまでカリスマとして君臨しているが、相棒のジョニー大倉ももっと評価されてほしいものだ。

 

キャロルの存在は衝撃的で若者文化に大きな影響を与えたとはいえ、残念ながらロックが一気にメジャーになることはなかった。