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『キャント・バイ・ミー・ラブ(Can't Buy Me Love)』 ビートルズ

       

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ビートルズ 6th シングル

 「キャント・バイ・ミー・ラブ(Can't Buy Me Love)」は1964年3月20日、パーロフォンからリリースされたビートルズ6枚目のシングルである。もちろんレノン・マッカートニー作詞作曲のオリジナル・ナンバーだ。おもにポールが書いた曲で、リード・ボーカルもポール。B面はやはりオリジナルの「ツー・キャン・ドゥ・ザット(You Can't Do That)」で、こちらはジョンがメインの曲である。

 

ビートルズを取り巻く状況

 セカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」のヒットで大ブレークしたビートルズだったが、アメリカではさっぱり売れなかった。

 ところが5枚目のシングル「抱きしめたい(I want To Hold Your Hand)」が1964年初頭から大ヒット。タイミングよく初訪米と重なり、イギリスから一年遅れてアメリカでブレークした。

 「キャント・バイ・ミー・ラブ」は空前のビートルズ・ブーム真っ只中にリリースされた。

 

レコーディング

 レコーディングは通例のEMIスタジオではなく、1月29日、パリにあるパテ・マルコーニ・スタジオで行われた。フランス、パリ公演の合間を縫ってのもので、「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー(She Loves You)」のドイツ語ヴァージョン(「Komm, Gib Mir Deine Hand」「Sie Liebt Dich」)のレコーディングが目的だった。レコーディングは短時間で終わったので、ついでに新曲のレコーディングに取り掛かった。

 ビートルズジョージ・マーティンは今回も曲構成に工夫を凝らし、イントロなしでいきなりポールのシャウトから始まりインパクトを出している。エンディングもポールのボーカルで締めている。

 ジョージのトレード・マーク、リッケンバッカー360/12がレコーディングで最初に使用された曲でもある。

 発売されたのはモノラル・ミックスだが、アルバム用にステレオ・ミックスも制作されている。ステレオ・ミックスではオーバーダビングしたジョージのギター・ソロに消去できなかったのか別テイクのギター・ソロの音もはっきり聞こえる。

 モノラルが主流だった当時ステレオ・ミックスはメンバーも立ち会わないなど軽視されていたようだが、「キャント・バイ・ミー・ラブ」のステレオも若干の仕事の雑さを感じる。

 

チャート制覇

 前述のようにアメリカでブレーク直後のリリースだったため、「キャント・バイ・ミー・ラブ」は予約発注だけで史上初の100万枚に達してしまった。これはギネス記録として認定され、さらにビルボードでは2週目で1位獲得という最短記録を樹立した。

 その1位を記録した4月4日、ビートルズ前人未到の記録を達成する。ビートルズの楽曲が、ビルボードのチャート上位5曲を独占するという快挙だ。ブレークにともない、過去見向きもされずに終わったシングルが遡って売れ始めたために起こった現象だ。

 

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   4月4日付 ビルボード・ホット100

 

 

ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Days Night))』

 

 同時期に撮影された映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の中でも挿入曲として使用されている。

 スタジオを抜け出したビートルズがグランドを走り回る有名なシーンのバックで流れていて、強く印象に残る。

 

 こうしてみると、やはり「キャント・バイ・ミー・ラブ」もビートルズを語る上では欠かせない代表曲のひとつだろう。 

 

 

 

 

 
The Beatles Can't Buy Me Love (live HD)

 

 

 

 

 

 

「フロム・ミー・トゥー・ユー」 ビートルズ

フロム・ミー・トゥー・ユー

 

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ビートルズの3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥー・ユー」は1963年4月11日発売

された。B面は「サンキュー・ガール」。

 

ヘレンシャピロのツアー中の2月28日、シュールズベリーへ向かうバスの中でジョンとポールによって作られた。

レコーディングは書かれてからわずか5日後の3月5日に行われた。この日のセッションでは「サンキュー・ガール」も同時にレコーディングした他に「ワン・アフター・909」も手がけたが、納得のいくパフォーマンスができなかったようでお蔵入りとなった。

その後「ワン・アフター・909」は「ゲット・バック・セッション」で再び取り上げられ、アルバム『レット・イット・ビー』に収録された。ちなみにこの日レコーディングされた63年ヴァージョンは32年を経て『アンソロジー 1』にて陽の目を見た。

 

ビートルマニア

 

元々イントロはギターだったがジョージ・マーティンのアドバイスでジョンによるハーモニカがオーバーダビングされた。マーティンのアイデアは上手くいき、この曲の魅力を引き立てとてもビートルズらしい仕上がりになった。

ポールはミドル・エイトでマイナーに変わる部分を自分たちの曲作りの大きな成長だととインタビューで答えている。

 

63年になるとビートルズの人気は一気に高まり、やがてイギリスにとどまらずヨーロッパ中に広がっていった。特に熱狂的なファンはビートルマニアと呼ばれ大きな話題となりビートルズの人気は社会現象となった。

「フロム・ミー・トゥー・ユー」「サンキュー・ガール」はタイトルが示す通りそんなファンに向けた感謝のメッセージだろう。この頃のビートルズはまだアーティストというより少女たちのアイドルだったのだ。

 

前作「プリーズ・プリーズ・ミー」はチャートによっては1位になっていなかったので(「レコード・リテイラー」では2位止まりだったため『1』には未収録だった)、「フロム・ミー・トゥー・ユー」こそが正真正銘最初の全英ナンバー・ワンである。しかしイギリスで大ヒットしたにもかかわらずアメリカではマイナーレーベルから「プリーズ・プリーズ・ミー」のB面でのリリースだったためにあまりヒットせず、さらに次作「シー・ラブズ・ユー」から特大ヒットが連発するため若干地味な印象となってしまった感がある「フロム・ミー・トゥー・ユー」だが、初期ビートルズを語る上で外せない重要な一曲であるだろう。

 

 
The Beatles - From Me To You

 

 

 

 

ロックと日本語

日本語ロック黎明期

 

日本人アーティストのロック・ミュージックというのも普通に聴かれるようになって久しい。そもそも今の若い世代は「このバンドがやってるのはロックか否か」なんてことは考えずに聴いているのだろう。いいと思った音楽をジャンルなんか関係なく聴くことは健康的だと思う。今はみんな音楽に変なこだわりも持たずにいろいろな曲を手軽に聴けるいい時代になった。

 

しかし今から50年近く前ロックが誕生してまだ日が浅かった頃、黎明期だった日本でははアンダーグランド的な特別なジャンルだったようだ。

1966年ビートルズの来日を機に多くの日本の若者も海外のロックをじゃんじゃん聴くようになった印象だったが、実際には洋楽ファンはあまりいなかったようで、ほとんどは歌謡曲やフォーク、GS等を好んで聴いていた。

 

当時の記事などを読むと確かにロック・ファンはマイノリティで音楽の話ができるクラスメートがいないなんて人も多かった。それだけにどこか選民思想のようなものが感じられる。

当時は、ロック=反体制 みたいな考え方もあったので、例えロックをやってたとしてもアーティストが酒もドラッグもやらず早寝早起きの健康的な生活をしていたとしたらそんな奴の音楽はロックと認めてもらえなかったのかもしれない。

 

GSブームが去った後、人気グループだったタイガース、スパイダース、テンプターズのメンバーが集まり本格的なロック・バンド「P・Y・G」を結成したが、ステージに立つとロック・ファンから物を投げられ罵声を浴びせかけられたそうだが、これはすでに芸能界で成功しているメンバーが大手芸能プロからデビューしたのにロック・バンドを名乗ったのが気に入らなかったからだろう。まさに音楽そのものじゃなくアーティストのバック・ボーンを重要視した一例だろう。

なんだか頑固でめんどくさそうな聴衆である。森高千里が「おじさん」って呼ぶわよと切り捨てたのはこういった人達だったんだろう。たぶん。

 

ロックを日本語で

 

日本人がロックをやる時おそらく一番大きな壁は言語だと思われた。英語圏で生まれたロックを日本語で再現するのは土台無理な話ではないのか。という時代だった。

 

日本人になじみの薄いアメリカのバンドの影響が強い先進的な日本のバンド、はっぴいえんどで作詞を担当していた松本隆は日本語をロックに乗せることに挑んでいた。サウンド志向の強い細野晴臣大瀧詠一はあまり賛成ではなかったようだが彼らの試みは大きな成果を挙げ「日本語ロックの第一人者」と称されるようになった。

この流れに日本語のロックはナンセンスという「ロックは英語派」アーティストが「日本語模索派」に物申し「日本語ロック論争」が巻き起こった。

 

「新宿プレイマップ」1970年10月号誌上では内田裕也大瀧詠一鈴木ヒロミツといった今じゃ考えられない面子で座談会をやっていてロックに対する考え方をそれぞれがはっきり主張している。

「ロックは英語派」の内田は日本にロックを持ち込んだ張本人という自負があるようで日本には日本語でロックを土着させようとする大瀧の意見が面白くなにかとイチャモンをつけている。一方大瀧は自分達がやりたい音楽を追求できれば他所のバンドにはあまり関心がないようで座談会ではあるが両者にはずい分温度差があるように感じる。しかし大瀧も喧嘩腰の内田に対して「でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか」と言って内田をキレさせてもいる。

パッション先行型の内田は、ロックだって興行的に成立させることを優先する現実的な鈴木にもダメだししている。晩年は人のいい明るいおじさんタレント的なキャラでテレビ出演していた鈴木ヒロミツだが対談時はバリバリのミュージシャンだったらしくジョン・レノンを彷彿させるビジュアルだったとは。

 

みんな言ってることは間違ってはないのだろうがロックとの向き合い方がまったく違うため「日本語ロック論争」ははっきり答えが出ないままだらだら続いていった。

 

フォーク・ソングのヒット

 

結局ロックは日本語でやれるのか。この問題はそれぞれの考え方があるからきっと正解はないのだと思う。しかし1971年11月に発表されたはっぴいえんどの『風街ろまん』は「日本語ロック」のひとつの到達点と評されしばらく続いた論争もフェイドアウトしていった。

 

この時代はロックに限らずフォークも反体制・反商業主義が求められた。そんな中強いメッセージがなく個人的なことを歌う吉田拓郎は異端でありジョイント・コンサートなどではPYGと同じように物が飛んできたり歌が聞こえないほどのブーイングを浴びた。

この時代の若者はなんでこんなに思考が凝り固まっているのか。せっかくコンサートに来たら楽しめばいいのに。それともこれが彼らなりの楽しみ方だったのか。

 

しかし72年春「結婚しようよ」が大ヒット、続く「旅の宿」もオリコン1位を獲得。吉田拓郎は一躍スターとなった。

政治的な匂いがしないフォーク・ソングのヒットは学生運動の終焉と重なり新しい時代の到来を告げた。またロックと違いアコーステック・ギター1本あれば誰でもすぐにできるフォーク・ミュージックは一気に浸透して多くの拓郎フォロワーを生み出した。

 

フォーク・ソングが続々とリリースされたが、同じ頃ロックの方はどうしていたのか。

今や伝説のバンドとなっている頭脳警察村八分など新しい世代が活躍していたが、一部で熱狂的に支持されていただけで一般の知名度はほとんどなかったと思われる。やはり日本のロック・バンドはメジャーにはなれないのか。

 

キャロル登場

 

吉田拓郎ブームの72年末、ロック・バンドのキャロルがデビューする。日本のポップ・ミュージック史の中でキャロルの登場はひとつのエポックだろう。

 

「日本語ロック論争」でぶつかり合ってた主張とはまったく別のアプローチで日本語ロックを提示してきたのだ。彼らのロックはもはや英語とか日本語とかにこだわる必要はないように感じさせる。というか彼ら自身言語の垣根を取っ払っていたんじゃないだろうか。

その詩は基本日本語だが所々英語詩が出てくるという今では普通の手法だが、おそらく当時は画期的な詩作だったろう。中心人物の矢沢永吉ジョニー大倉は曲作りで優先したのは詩の内容よりリスナーの耳にどう響くかだったろう。

実際大倉は著書の中でデビュー曲「ルイジアンナ」を英語で作詞してから日本語にしたと言っている。曲名にしてもルイジアナではなく敢えてルイジアンナにしたらしい。また歌唱法についても日本語も英語みたいに聞こえるように矢沢に注文したそうだ。

このようにかなり意識的に生み出された英語と日本語チャンポン・ロックは「日本語ロック論争」を過去のものにして、新たな「日本語ロック」の出発点だったともいえるのではないだろうか。

 

キャロルは音楽性だけでなく、時代錯誤なファッションや矢沢の強烈なキャラクターも相まって音楽ファンからはバカにされていたという話も聞くが、大きな功績を残したバンドだった。

矢沢は現在にいたるまでカリスマとして君臨しているが、相棒のジョニー大倉ももっと評価されてほしいものだ。

 

キャロルの存在は衝撃的で若者文化に大きな影響を与えたとはいえ、残念ながらロックが一気にメジャーになることはなかった。

 

 

 

ポール・マッカートニー 日本公演

 

ポール・マッカートニー 日本公演  今昔

ポール・マッカートニーの最新ツアー、フレッシュン・アップの日本公演が10月31日から東京ドームでスタートした。現在もツアーは続いておりポールは日本に滞在中である。76歳とは思えない充実した内容のパフォーマンスを繰り広げている。

しかしいつの間にやらポールのジャパン・ツアーも今回で7回目ということだ。30年くらい前まではポールやローリング・ストーンズのコンサートを日本で観るなんてほぼ絶望的だった。毎年のように日本に来てくれる最近のポールをみているとなんだか信じられないような話だ。当時はジュリー演じる主人公が個人で原爆を作り「ローリング・ストーンズの日本公演」を実現しろと政府を脅迫するような映画(『太陽を盗んだ男』)が制作されるような時代だったのだ。主人公の要求にきっと当時の若者は共感できたのだろう。

 

70年代のポール日本公演の顛末

 ビートルズが解散するとポールは新しいバンドウイングスを結成。このバンドでビートルズ中期以降やらなくなったツアーを開始した。70年代半ばにはビートルズに匹敵するほどに成長したウイングスのライブを日本で観たいというのは当然の流れだった。

1973年、すでにチケットが発売されていたがストーンズの日本公演が中止に。さらに75年にはウイングスの公演がチケット発売直前に中止になった。多くの日本人が待ち望んでいたにもかかわらずコンサートが行われなかったのは、彼らの大麻に関しての前科が原因だった。アルコールにはおおらかだが大麻には厳しかった日本政府が入国を許可しなかったためである。

しかしポール側も日本のファンもコンサートの実現をあきらめなかったようで、75年の中止から4年を経て、再び日本公演が決定する。今回は直前に中止になることはなく、1980年1月16日ポール・マッカートニー御一行は日本にやって来た。

 

一転、悪夢へ...

熱狂的な歓迎の中、今度は無事入国したと誰もが思っただろうが、お祭り気分は一瞬で悪夢となった。ビートルズの来日から13年半、待ちに待ったポールがついに日本に来たというのに、なんとスーツケースの中の大麻が発見されその場で逮捕されてしまった。コンサートは全日程キャンセルされ、ポールは実際に留置されてしまった。今度こそポールのステージを生で観覧するという日本のファンの夢は幻と化した。

ポール逮捕の報にすぐに取材に駆けつけた池上彰氏とポールが一緒に写った一枚が最近の池上さんの人気に伴ないあちこちで紹介されているがポールから見たらいい迷惑かもしれない。

そもそも過去の大麻の件がネックになり入国許可がなかなか下りなかったポールだけに、今回の逮捕の影響は大きく今後日本に来ることは絶望的になった。

 事件の後ウイングスは活動を休止したが、ポールはソロ・アルバム『マッカートニーⅡ』をリリース。シングル「カミング・アップ」とともに大ヒットとなり見事に復活した。勢いに乗ったポール次のアルバムの制作に取り掛かるが、その矢先の1980年12月8日、ジョン・レノンが暗殺されてしまった。悲しみのあまりポールはすべての活動をストップさせてしまった。翌年4月にはウイングス結成時からの重要なメンバー、デニー・レインが脱退を表明。ウイングスは事実上解散した。

 

ポールの80年代

ポールの70年代はビートルズの解散から始まったが、80年代はジョンの死とウイングス解散から始まったと言ってもいいだろう。

 決別した後もポールの中ではジョンは永遠のパートナーであり、いつかまた共演、共作する日が来ると思っていたのではないだろうか。そのジョンが亡くなってしまった今、ポールは共作者を探し始める。「エボニー・アンド・アイボリー」ではスティービー・ワンダー、「ガール・イズ・マイン」「セイ・セイ・セイ」ではマイケル・ジャクソンと組んで制作に臨んだ。同時に中年になったポールはビートルズだった過去も肯定的に受け入れられるようにもなりプロデュースをジョージ・マーティンに依頼してもいる。これらの曲はいずれも記録的なヒットとなったが、すでにスティービーもマイケルもポールに引けを取らないスーパースターであったため、一連の作品はポールが”新たなパートナー”と制作したというより”スーパースター同士の夢の競演”といったスポット的な作品なのであった。

次いでポールが共作者に選んだのは10ccのエリック・スチュワートだった。エリックはスティービーやマイケルと違い本格的な共作者としてアルバム制作にたずさわった。1986年に発表された『プレス・トゥ・プレイ』はエリックと共作したことで新しいポール・サウンドを聴かせてくれるとのことだったが、一般的な評価は高くなく、セールスも過去にないほど低迷した。ビートルズのデビュー以来四半世紀、ずっとトップを突っ走ってきたポールのキャリアに陰りを感じさせる時がきたのだった。

80年の日本公演の中止以降のポールは、デビュー以来初めてソロ・アーティストとして活動していた。作品制作のたびに共作者はいるものの継続した間柄ではなく、バックのメンバーもその都度集めていた。そのような環境のためポールは長い間ツアーに出ておらず、この時期ポールのライブは単発のチャリティーコンサートなどに限られられていた。その中のひとつ1986年6月の「プリンス・トラスト・コンサート」は今後のポールにとって重要なものになった。しばらくステージから遠ざかっていたポールは「プリンス・トラスト・コンサート」に出演したが、その時ステージの楽しさや興奮を完全に思い出したという。重要なのはこの体験がステージ復活の原点であり、89年からのワールド・ツアーに繋がっていくのである。

 

復活!ポール・マッカートニー

ツアーは行わないとはいえ、アルバム制作には意欲的なポールはいまだ共作者を求めていた。新たなるパートナーに選んだのはひと回りも年下のエルビス・コステロだった。相手が天下のポール・マッカートニーだろうがダメなものには遠慮なくダメ出しするコステロに、ポールはジョンを思い出したと言っている。また彼からヘフナーのベース・ギターの使用をさかんに勧められ、実際にヘフナーでレコーディングしている。コステロが自分の意見をはっきり口にすることが功を奏し、完成したアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は1989年6月にリリース。前作の不評を払拭する高い評価を得た。傑作アルバムを手土産にポール・マッカートニー復活、というムードが漂った。

 

ワールド・ツアー始動

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さらにポールはニュー・アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を引っさげてワールド・ツアーも復活させた。ツアーは1989年9月26日ノルウェーオスロから始まった。

久しぶりのツアーだった上にセット・リストの半数がビートルズの曲が占めたため、コンサートは各地で熱狂的に迎えられた。もちろん多くの日本のファンはこのコンサートを今度こそ日本で観たいと願っていた。しかし前回の逮捕が尾を引いて来日は相当厳しいということらしい。

ところで1989年という年は、解散が噂されたいたローリング・ストーンズが新作『スティール・ホイールズ」をリリース。夏には8年ぶりとなるワールド・ツアーをスタートさせていた。

奇しくも入国許可が下りない二大アーティストが同時期にツアーを始動させたのである。当然ストーンズの来日公演の期待も高まっていった。80年代が終わろうとしている中、日本ではストーンズやポールの日本公演実現のための署名運動も起こり、注目を集めた。

個人的にはアタマの固い日本政府が許可するとは思えなかったので日本公演はサッサとあきらめて海外で観ることにした。ポールが観れるなら日本でもアメリカでもどっちだっていいやって気持ちだった。アメリカのコンサートは観客のノリが日本とは全然違うのに少し驚いたが、より非日常感が増し興奮と感動で忘れがたい体験だった。

 

祝!ポール来日

帰ってきて聞かされたのは、なんとポール・マッカートニーの日本公演が決定したとのニュースだった。まさか本当に許可が下りたのか。ほぼあり得ないと思ってアメリカまで行ったが、その間に急展開したのか。仮に本当だとしてもポールの場合過去の件もあるし実際ライブが始まるまでどうなるか分からないから手放しで喜べない。二度あることは三度あるとも言われるし。とか思いつつも結局はポールの来日を心待ちにしていたのである。

遂に、1990年2月28日、今度こそ本当に成田空港に到着したポール・マッカートニーが日本に入国したのだった。

そして3月3日、日本人の長年にわたる夢だったポールのコンサート・ツアーの幕が上がった。

 

 

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ビートルズ アメリカ上陸

 

アメリカ進出の夢

そもそもどこまで本気だったか分からないが、ビートルズはデビュー前からアメリカ進出を視野に入れていたという。少なくともメジャーでのデビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」リリース以降はそれなりに本気で売り込んでいたようだ。

しかし1963年当時ポップ・ミュージック大国のアメリカでは、ほとんど相手にされずにいた。すでにイギリスでは社会現象にまでなっていたビートルズだったが、アメリカの音楽業界は彼らのサウンドを時代遅れとみなしていた。

それでもビートルズたちはアメリカ進出の夢をあきらめることはなかった。

 

 チャンス到来

ビートルズが所属するイギリスのEMIのアメリカでの販売元はキャピトル・レコードである。プロデューサーのジョージ・マーティンは新曲が完成するとキャピトルに聴かせてリリースを打診するもこれまで見送られてきた。アメリカの音楽を模倣したイギリスのポップ・バンドがアメリカで成功するなんて多くの人があり得ないと思っていたのだろう。

しかし成功を信じてあきらめなかったビートルズにチャンスが到来する。1963年の11月にリリースした5枚目のシングル「抱きしめたい」をロンドンでたまたま耳にしたキャピトル・レコードのA &Rマンの心を掴んだ。

A &Rマンのデイブ・デクスター・ジュニアはそれまでもイギリスから送られてくるビートルズの曲を聴いていたがアメリカでは絶対売れないとしてリリースを拒否してきた。ところが「抱きしめたい」を聴いてこれは売れると感じキャピトルからのリリースが決まった。

 

「抱きしめたい」ヒット

12月ついにビートルズはメジャー・レーベルから「抱きしめたい」をリリース。いざ発売するとなるとキャピトルは本腰を入れたプロモーションを始めた。

一方ビートルズ側の戦略はなにもレコード・リリースだけではなかった。アメリカで成功するためにいろいろと忙しく動いていた。まずニューヨークにある格式の高いカーネギー・ホールでのコンサートをやることだ。こっちはレコードと違いすんなり決まったらしい。行きがけの駄賃じゃないがこの時のアメリカ滞在時に人気バラエティ番組「エド・サリバン・ショー」に破格の条件での出演も取り付けた。コンサートのプロモーター、シド・バーンスタインや「エド・サリバン・ショー」のMC エド・サリバンはユダヤ人である。これらの契約にはマネージャーのブライアン・エプスタインもユダヤ人だったことが大きく影響したのだろう。

アメリカ上陸の準備は着実に整った。もう一つ必要なのはアメリカでの曲のヒットだ。

ビートルズの4人は超多忙だったため周りで進んでるプロジェクトをどこまで把握していたか分からないがコンサートのため滞在していたパリに吉報が届いた。

1964年2月1日、なんと「抱きしめたい」がビルボードのチャートで首位に立つという快挙を成し遂げた。1月18日にランクインからわずか2週間の超急上昇だ。ほんの少し前までほとんどの人が想像もしていなかったことが実現したのだ。ビートルズはパリのホテルの部屋で喜びを爆発させた。予想を上回る「抱きしめたい」の大ヒットはフランス公演の次に控えているアメリカ巡業の最高の追い風になった。

 

 2月7日 アメリカ上陸

フランス公演の後一旦イギリスに戻ったビートルズは遂にアメリカに飛び立った。

1位獲得直後の2月7日、ビートルズ御一行はニューヨークのケネディ空港に降り立った。この時出迎えたファンの歓声は凄まじくジョンは「大統領が乗ってるのかと思った」そうだ。この機には後にビートルズ解散の戦犯の1人になるフィル・スペクターが同乗していた。アメリカ行きが不安だったジョンが頼んだとか。

ケネディ空港では記者会見を開いたが当時のビートルズはまだ音楽的にはあまり評価されておらず奇妙なヘア・スタイルの方が関心を集めていた。そのため記者からはおかしな質問も飛んだ。

「髪の毛を切る予定は?」

と聞かれるとすかさずジョージ・ハリスン

「昨日切ったよ」

と切り返した。

「君たちはなぜ成功したのか?」

との質問にはジョンが

「それが分かればマネージャーになって稼ぐよ」

なんてサラッと答えている。

ウィットに富んだ4人の質疑応答はビートルズを厳しい目で見ていたアメリカの記者達にも好意的に受け入れられた。今のところビートルズアメリカ侵略は順調に進んでいるようだ。

 

エド・サリバン・ショー」出演

もはや伝説になっているが2月9日、ビートルズは「エド・サリバン・ショー」に出演した。

今や全米の注目を集めるビートルズの出演とあってこの日の番組の視聴率は72パーセントという驚異的な数字を叩き出した。そしてビートルズが演奏中はニューヨークでの少年犯罪が一件も起きなかったとも言われている。とにかくこの夜、動くビートルズを見るために約7500万人もの人がテレビの前にいたのだ。

ビートルズ訪米の騒動を描いたロバート・ゼメキスの「抱きしめたい」という映画はファンの視点から撮られていてビートルズ自身は出てこないところが面白い。小ネタもありでビートルズのファンなら楽しめる内容になっていると思う。

 

ビートルズが残していったもの

2月11日にはワシントン・コロシアムのコンサート、翌12日はカーネギー・ホールでのコンサートも大盛況だった。また15日付のビルボードのアルバム・チャートでアメリカ版『ウィズ・ザ・ビートルズ』である『ミート・ザ・ビートルズ』が1位を獲得。以後11週首位を守った。

ビートルズの初めてのアメリカ訪問は大成功に終わった。ビートルズの影響はあまりにも大きく、彼らの後を追うようにイギリスのグループがアメリカへ進出しチャートを席巻。ポップ・ミュージックの主流をガラリと変えてしまった。この現象は(第一次)ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれている。

既存のマスコミ等はこのビートルズ熱を一過性のものと見なしていたフシがあるが若者たちには計り知れないものを残した。70年代以降活躍するアーティストにはこの時ビートルズにインスパイアされた者も少なくない。ビートルズの出現は完全に新しい世代を生み出したと言っても過言ではないかもしれない。

もし4人がアメリカ進出を早々にあきらめていたら20世紀後半のポップ・ミュージックはずいぶん違うものになっていたかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

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『ウィズ・ザ・ビートルズ』 ビートルズ

 

ビートルズ セカンド・アルバム

『ウィズ・ザ・ビートルズ』は1963年11月22日3に発売されたビートルズのセカンド・アルバム。

レコーディングは1963年7月18日 「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」のセッションから始まりハードなスケジュールの合間をぬって3ヶ月かけて完成させた。

また5枚目のシングル「抱きしめたい」「ジス・ボーイ」もこの時のセッションの終盤でレコーディングされたもので、ちょうど4トラックのレコーディング機材が導入されたタイミングだった。トラック数が倍になったことでレコーディングの幅がグンと広がり、これからビートルズは革命的なレコーディングを成し遂げることは周知の通り。

 

 

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 チャート状況

発売時にはまだファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がチャートのトップにいたためにビートルズのアルバム同士で首位争いとなった。30週間トップに君臨していた『プリーズ・プリーズ・ミー』に取って代わって首位に立ち、そのまま21週間その座をキープした。なんとイギリスのアルバムチャートは1963年の春から丸一年ビートルズが独占した。

ちなみに『ウィズ・ザ・ビートルズ』を1位から引き摺り下ろしたのはローリング・ストーンズのデビュー・アルバムだ。さらにストーンズから『ア・ハード・デイズ・ナイト』が1位を奪い返した。

 

収録ナンバー 

 A面

   「イット・ウォント・ビー・ロング」

   「オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ」

   「オール・マイ・ラヴィング」

   「ドント・バザー・ミー」

   「リトル・チャイルド」

   「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」 

   「プリーズ・ミスター・ポストマン」 

 B面 

   「ロール・オーバー・ベートーベン」

   「ホールド・ミー・タイト」

   「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」

   「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」

   「デヴィル・イン・ハー・ハート」

   「ナット・ア・セカンド・タイム」

   「マネー」

   

前作ではポールのカウントで始まったが、このアルバムではいきなりジョンのシャウトから幕をあける。どちらもインパクトのあるオープニングだ。一発で聴くものの心を掴むための工夫が見て取れる。

勢いがありいかにもビートルズらしいコーラスの「イット・ウォント・ビー・ロング」の次もジョンのラブソング「オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ」。どこか「アンナ」彷彿させる曲調だ。

3曲目はポールの必殺ナンバー「オール・マイ・ラヴィング」。50年以上たった今観ても、『エド・サリバン・ショー』のオープニングを飾るこの曲でアメリカ中のティーンの女の子がポールに夢中になったのもよく分かる。3連符を弾くジョンのギターが聴き所。

続く「ドント・バザー・ミー」は若干地味な印象もなきにしもあらずだが、記念すべきジョージの第一作目の曲だ。当時『マージー・ビート』の編集長だったビル・ハリーから「ジョンやポールみたいに君も曲を書きなよ」とせっつかれたジョージはその返答として「僕にかまわないでくれ」、といったこの曲を作ったようだ。

「リトル・チャイルド」はジョンとポールの共作のナンバー。おおよその作詞はポールのようである。ここでのジョンは印象的なハーモニカを聴かせてくれる。

次の「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」のオリジナルはブロードウエイのミュージカル『ミュージックマン』の劇中歌。ビートルズはペギー・リーのバージョンを参考にカバーしている。またしてもポールの甘いボーカル・ナンバーで女の子たちをうっとりせた。

モータウンのガールズ・グループ、マーベレッツが1961年に全米No.1を獲得した大ヒット・ナンバーのカバー。初期のビートルズはカバー曲も多数レコーディングしているが、No.1ヒットのカバーを公式にリリースしたのはこの「プリーズ・ミスター・ポストマン」のみ。今やビートルズ・バージョンの方が有名かも。アナログではA面ラストの曲

B面の頭はジョージがリードの「ロール・オーバー・ベートーベン」。もちろんチャック・ベリーがオリジナル。ビートルズチャック・ベリーはジョン、リトル・リチャードがポール、カール・パーキンスがジョージがリード・ボーカルという役割だが今回歌うはジョージ。

軽快なポールの「ホールド・ミー・タイト」。元々はあの2月11日の『プリーズ・プリーズ・ミー』セッションで録音されたナンバー。この時ベストなテイクが録れなかったようでアルバムには収録されなかった。ビートルズはセカンド・アルバム用に再度レコーディングに臨み無事完成させた。

「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」はモータウン所属のミラクルズのカバー。R&Bチャート1位。ボーカルはジョン。ビートルズはブラック・ミュージックもよくカバーしているものの、ガールズ・グループやモータウン系に限られているところがストーンズを始めとするロンドン勢との違いか。

そのローリング・ストーンズのセカンド・シングル用にとジョンとポールがストーンズのメンバーの目の前で完成させたナンバー。当時のストーンズにはなかなか相性の良さそうなR&B。リンゴがボーカルのビートルズのセルフ・カバー。後に自分たちで曲を作るようになるミック・ジャガーキース・リチャーズはこの時あっという間に曲を完成させたジョンとポールに大きな影響を受けた。ビートルズ・バージョンはリンゴが歌うことで直接対決を回避したのか。

「デヴィル・イン・ハー・ハート」。またまた黒人ガールズ・グループ、ドネイズのカバー。しかし「プリーズ・ミスター・ポストマン」と違いまったく売れなかったかなりのマイナー曲。港町リバープールは船員たちが直接アメリカから持ち帰るマニアックなレコードも出回っていたようで、ビートルズは他のビート・バンドとの差別化もありヒット曲以外も積極的にレパートリーに取り入れていた。このアルバムでは3曲目となるジョージのリード・ボーカル。

B面6曲目に収められた「ナット・ア・セカンド・タイム」は、そのタイトルからも想像がつくジョンお得意の恨みがましい悲観的なナンバー。歌詞の内容はさておき『ザ・タイムズ』誌にエンディングが『マーラーの「大地の歌」と同じ終止法』と絶賛された名曲。しかし作曲者のジョンはそれがどういうことか分からなかったらしい。

アルバムの最後はパワフルなジョンのボーカルが冴える「マネー」だ。オリジナルはバレット・ストロングがモータウンの前身タムラ・レーベルから1959年にリリース。全米23位のスマッシュ・ヒットを記録した。ジョンのお気に入りナンバーのようで勝負がかかったデッか・オーディションでも披露しているが、万全な体調ではなかったのか声が出ていない。ジョンが歌うカバー曲でアルバムを締める構成は前作を踏襲したのだろうか。

 

驚異的な売り上げ

『ウィズ・ザ・ビートルズ』はビートルズが社会現象になり『プリーズ・プリーズ・ミー』と「シー・ラブズ・ユー」がチャートのトップを走っているタイミングでリリースされた。予約注文で30万枚に達し、エルビス・プレスリーの『ブルー・ハワイ』の予約注文記録を塗り替えた。発売されるとあまりの売れ行きにアルバムであるにもかかわらずシングル・チャートにもランクインしてこれも記録を塗り替えた。さらに二年後の1965年9月にはイギリス人アーティストとして初のミリオン・セラーを達成した。

 

タイトなスケジュールの中でのアルバム制作のためじっくり曲作りができず、全14曲中6曲がカバー曲であるがオリジナル曲と違和感なく並べられており、アルバムを通してビートルズとしか言えないオリジナリティが貫かれている。

またハードなレコーディングだったにもかかわらず、既発のシングルA/B面曲は一曲も収録されていないのはさすがだ。

 

 

ウィズ・ザ・ビートルズ

ウィズ・ザ・ビートルズ

 

 

 

 

 

ビーチ・ボーイズ 『オール・サマー・ロング』

 

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夏はやっぱりビーチ・ボーイズ

 夏といえば海。海といえばビーチ・ボーイズ。短絡的だが夏になると突如ビーチ・ボーイズが聴きたくなる。特にサーフィンやホットロッドをテーマにした初期のアルバムが気分だ。暑いと思考が単純になるようだ。 

 『オール・サマー・ロング』はビーチ・ボーイズの6枚目のオリジナル・アルバムで1964年7月13日リリース。ビルボードで最高4位のヒットを記録した。内容はデビュー当時ほど押し出してないとはいえ、得意とするアメリカの若者のライフ・スタイルをモチーフにしている。

 

 1964年といえば、2月にアメリカ上陸を果たしたビートルズが大旋風を巻き起こし、それを契機にイギリスのアーティストの曲が次々とチャートに入る、いわゆるブリティッシュ・インベイジョンが始まった年である。

 イギリス勢に押され、それまでヒットを連発していたアメリカのトップ・アーティストもチャートから遠ざかる者が少なくなかった。彼らのサウンドはもはや時代遅れとなってしまったのだろうか。

 そんな状況の中ビーチ・ボーイズはイギリス勢に対抗できる数少ないバンドの一つだった。

『オール・サマー・ロング』収録曲

 『オール・サマー・ロング』収録曲を勝手に解説してみる。

「アイ・ゲット・アラウンド」 

 アルバムの冒頭を飾るのは、大ヒット・チューン「アイ・ゲット・アラウンド」だ。

ビートルズ旋風真っ只中勝負に出たこの曲は意外なことにビーチ・ボーイズ初の全米 No.1 ヒットである。タイトル通りの曲調で、マイクのリード・ボーカルにブライアンのファルセット・ボイスが絡んでいく傑作ポップ・ソングだ。イギリスのアーティストには決して作れない底抜けの明るさは、ブリティッシュ・インベイジョンに対する、アメリカからのお返しか。ビーチ・ボーイズが初めて1位を獲得したのも偶然ではなかったのかもしれない。

「オール・サマー・ロング」

 フェイドアウトしていく「アイ・ゲット・アラウンド」に続くシロフォンのイントロが小気味いいアルバムのタイトル・ナンバー

 フランシス・コッポラの青春映画『アメリカン・グラフティ』のエンディングで流れたこともあり、いつ聴いても感傷的な気分にさせられるビーチ・ボーイズの傑作バラード。若い頃、洋楽の歌詞ってさっぱり分からず聴いていたけれど大人になって改めて歌詞を読んでみると、二度と戻れない”あの頃”の一コマを見事に表現されていた。マイク・ラブ、見かけによらずピュアな詩を書くんだなぁと。そしてタイトルが「オール・サマー・ロング」なんて。

 「ハッシャバイ」 

ブライアンのファルセットが冴えわたるこの曲は、意外なことにブライアンのオリジナルではなく、ミスティックスの1959年のヒット曲のカバー。この時期のブライアンはいくらでも名曲が書けただろうが、多忙過ぎてカバー曲を収録しなければ間に合わなかったのだろうか。しかしカバーとは言えビーチ・ボーイズのヴァージョンはミスティックスを超えた出来映えなのではないか。

「リトル・ホンダ」

本田圭佑選手じゃなくてアメリカでバカ売れしたホンダ製のスーパー・カブのことを歌ったナンバー

バックで”honda,honda~"とコーラスまで入るホンダ推しの内容。まるでCMソングみたいだがタイアップではなくビーチ・ボーイズが勝手に制作したようだ。この曲はその名もズバリ、ホンデルズ(The Hondells)というグループがカバーして大ヒットした。

「ウィル・ラン・アウェイ」

この曲もブライアンのバラード・ナンバー。やや抑えめのファルセットのためか落ち着いた印象を受ける。

「カールのビッグ・チャンス」

あまりビーチ・ボーイズっぽくないインスト・ナンバー

「ウェンディ」

あまりメジャーな曲じゃないけれど初期の名作のひとつ。コーラス・グループとしてのビーチ・ボーイズの魅力が存分に発揮されている必聴のバラード。完成度が高いだけに間奏部の咳払いがどうにも気になる。歌詞はフラれた男の愚痴と悪あがき。

「覚えているかい」

マイクがリードボーカルの軽快なロックン・ロール。自分たちが影響を受けてきたロックン・ロールへのオマージュ。突然ジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」のフレーズが飛び込んできたりする。

「浜辺の乙女」

これぞ”ビーチ・ボーイズ”という感じのいかにもな一曲。

朝から海に入って、昼食後にもうひと泳ぎ。午後2時過ぎた頃、程よく疲れたしそろそろ帰り支度でも始めるか。

そんなある夏の午後の風景が、なぜかこの曲を聴くと浮かんでくる。

「ドライブ・イン」

マイクがリードを取るこれまたビーチ・ボーイズらしいアップ・テンポの一曲。初期のビーチ・ボーイズはブライアンのバラードとマイクのロックン・ロールがいい感じで並立していたグループだったのだと思わせる。

「楽しいレコーディング」

初期のビーチ・ボーイズのアルバムにはいくつかこういうお遊び的なトラックが収録されているが、個人的には必要なし。現在なら初回特典のボーナス・ディスク用という感じ。

傑作アルバム

『ペット・サウンズ』が傑作であることに異論はない。しかし、それはそれとしてこの『オール・サマー・ロング』もまた傑作と言っていいのではないか。

ライブアンがレコーディングに凝りまくる直前のナンバーはいい意味で聴きやすく、タイトル、ジャケットも含めて青春時代の普遍的なイメージを完璧に表現している。『ペット・サウンズ』とは違う方向だがとても良いアルバムだと思う。これぞヒット曲を連発していた初期ビーチ・ボーイズの集大成だろう。

 

ブリティッシュ・インベイジョンに押され気味のアメリカのアーティストが、イギリス勢には決して作れないような内容のアルバムを発表したところ、海の向こうの新しいサウンドに夢中だったアメリカの若者がそれを熱狂的に支持した。

このアルバムの成功はそんなところだろうか。しかし誰よりも新しいサウンドに影響を受けたアメリカ人はブライアン・ウィルソンその人だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ローリング・ストーンズ 「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」

「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together)」 ローリング・ストーンズ

 
 「夜をぶっとばせ」はローリング・ストーンズ12枚目のシングルとして1967年1月13日にリリースされた。

ジャック・ニッチェのピアノが印象的な軽快なロックンロール・ナンバーで全英チャート3位のヒット。この時期ストーンズは1位を連発してるのでこの曲もナンバーワン・ヒットだと思っていたんだが。

 ところで邦題の「夜をぶっとばせ」ってマイク越谷氏が付けたらしいが洋楽邦題史上抜群のネーミングだろう。ずっと昔『BLOW THE NIGHT 夜をぶっとばせ』という映画を観たせいで「夜をぶっとばせ」の原題は「Blow The Night」だと長いことだが思い込んでいた。個人的に勘違いだらけだが初期ストーンズの代表曲のひとつだろう。

 

 「夜をぶっとばせ」がリリースされた1967年にはブリティッシュ・インヴェイジョンの波も落ち着いたが、ヒットチャートを賑わすアーティストの顔触れはこの3年ですっかり様変わりしてしまって、アメリカン・ポップスの終焉を感じさせる。ニール・セダカポール・アンカの時代は過去になってしまった。

 

 一方で空前のバンド・ブームで若者たちの注目を集めたイギリスは、'60年代中頃からスウィンギング・ロンドンと呼ばれポップ・カルチャーの中心地となる。ヴィダル・サスーン、マリー・クワント、ツィギー、新しいスターや流行が続々と現れた。

 ロック・スターも新たに誕生したスターだ。中でもローリング・ストーンズミック・ジャガーは特別な存在だった。当時まだ23歳のミック・ジャガーはロンドンで刺激に満ちた日々を存分に楽しんでいた。

 

 
Rolling Stones LIVE - "Let's Spend The Night Together" TOTP '67

 

「ルビー・チューズデイ」


 ストーンズのソングライター、ジャガー・リチャードのも今や3曲の全米No.1を持ついっぱしのヒット・メーカーで、ふたりの書く曲はもはやリズムアンドブルースやロックンロールの枠にとらわれないほど多彩なものに進化していた。

 「夜をぶっとばせ」ももちろんジャガー・リチャードコンビの作であり、ふたりのオリジナルでは珍しくもないことだが、歌詞が性的な意味を連想させる内容のため、ラジオ局がオンエアを自粛する可能性があった。

 それを見越してアメリカでは本来B面の「ルビー・チューズデイ」と両A面扱いでリリース。予想通りラジオ局は「ルビー・チューズデイ」を集中的にオンエアしたので、アメリカでは「ルビー・チューズデイ」のほうがヒットし3月4日付けで1位を獲得。

 こっちも当然ジャガー・リチャードのオリジナルであり、ブライアンのリコーダーが非常に効果的にフィーチャーされたバラード・ナンバー。数多いストーンズのバラードの中でも今も高い人気を誇るナンバーである。

 

エド・サリバン・ショー 歌詞差し替え

 

 1967年2月にストーンズエド・サリバン・ショーに5回目の出演を果たしている。エド・サリバン・ショーの初主演は1964年10月だが、その際司会のエド・サリバンは「もう2度と彼らをショーに出演させない」と激怒していたものの、結局ストーンズ人気に負けてたびたび出演させていた。

 ただこの日の2曲目「夜をぶっとばせ」の歌詞にダメ出しする。「Let's Spend The Night Together」の「The  Night」の歌詞を「Sometime」に変更を指示。「The  Night」を「Sometime」に変えるのがどれほどの意味があるのかイマイチぴんとこないが、そこが引っかかるならそもそもタイトル自体がアウトじゃないのか。

 これをしぶしぶ受け入れたミックが目をクルクルさせながらやや不明瞭に「Sometime Together」と歌ったのは誰もが知るところ。

 同じ年にドアーズが出演した時も「ハートに火をつけて」の歌詞が引っかかりやはり変更を要求された。ところがリハーサルではおとなしく従ったものの、生放送の本番時にはオリジナルの歌詞で歌ったため、ドアーズはエド・サリバン・ショー永久追放にとなった。

 ここがミック・ジャガージム・モリスンの違いだろう。やりたい放題やってるようでいて実はしっかり管理しているミック、そんな彼の感覚がストーンズ長期運営の大きな要因じゃないだろうか。一方でこういう計算高さがミックが嫌われるところでもある。

 

 レコードではジャック・ニッチェが弾いてたピアノはショーではブライアンが弾いてる。ほとんど横向きの引きの映像で何度かアップで抜かれてもそっぽを向いたままで、長い髪が顔にかかって表情もよく分からないのが惜しい。しかし圧倒的なオーラと存在感はまぎれもなくリードボーカリストに匹敵するほどである。

 

試練の始まり


 1967年の6月1日にはビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」リリース。16日から3日間カリフォルニアでモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催、25日にはビートルズが新曲「愛こそはすべて」のレコーディングを世界中に生放送。若者たちは数万単位で集会を開き愛と平和とロックとマリファナに酔いしれていた。アメリカを中心にサマー・オブ・ラブと呼ばれる社会現象が巻き起こりカウンター・カルチャーはひとつのピークを迎えた。

 

 ストーンズも時代の空気を思い切り吸って転がり続けていたが、ついに逆風が吹きはじめる。まるで今まで奔放な言動で保守的な人たちを挑発して困惑させて調子に乗ってたツケが回ってきたかのように。1967年、ストーンズの周りの様々な問題が顕在化していく。 

GRRR! ~グレイテスト・ヒッツ 1962-2012 <デラックス・エディション>

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日本で最初の磁器 伊万里焼の歴史

 

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 日本の工芸品はさまざまな分野で、中国や朝鮮を主とした諸外国からの影響を古代から受けながら発展してきた。その影響は単なる模倣で終わらず、日本人特有の繊細な感性や技術力を持って、時にはオリジナルを超えるような見事な作品を生み出している。今回は外国からの多大な影響を受けて成立し、やがて輸出品として外国から高い人気を得た、伊万里焼について考察する。

 

 16世紀が終わる頃まで日本には磁器の製造技術がなく、国内の磁器は中国からの輸入に頼るしかなかった。しかし豊臣秀吉文禄・慶長の役によって、大名たちは朝鮮半島から多くの陶工を連れて帰り、彼らから貴重な技術がもたらされた。その中の一人、李参平が有田の泉山で磁器の原料の陶石を見つけ、磁器の焼成に成功した。日本の磁器の歴史はここに始まる、というのが定説だが、実際はもう少し早く製陶が開始されていたようである。いずれにしてもこの秀吉の朝鮮出征は別名「やきもの戦争」と呼ばれているように、日本の陶芸界にとって革命的なことであった。

 

こうして1610年代日本で最初の磁器の制作が開始されたが、まだまだ技術的にも拙く、様式は朝鮮や中国・景徳鎮の模倣の域を出ていなかった。しかし急速に発展した伊万里焼はやがて中国製の磁器の代わりに海外でも重用されていく。

伊万里焼とは伊万里で作られた磁器だけを指すのではなく、有田焼を主とした、伊万里港から積み出された磁器の総称である。

1610年代~1640年代にかけて「初期伊万里焼」と呼ぶ。この時代の伊万里焼はまだ発展途上にあり、特徴は素地が厚く高台は皿の直径の三分の一であったので三分の一高台と呼ばれる小さく仕上げも粗い。染付けは呉須が高価なため面積は狭く色も若干薄めである。しかしこれらの未熟な点も欠点とはいえず、かえって素朴な味わいをだしている。絵付けは中国の影響が濃厚で、中国の絵手本に習ったものが見られる。初期伊万里の「染付け山水文大鉢」は中国風でありながら、中国ほどかたい表現でなくやわらかな筆さばきで描かれている。

 

1640年代には技術革新が行われ、それまで作れなかった色絵磁器の製造技術を得た。濃厚な色彩と大胆な意匠を特徴とする「古九谷様式」と呼ばれるものである。これは国内の富裕層をターゲットにして大いに流通した。古九谷は大きく三つに分けられる。景徳鎮窯で焼かれた「祥瑞」という磁器の影響を受けた赤を主体とした「南京手」、器全体を緑、紫、群青の釉薬で覆う鮮烈な印象を持つ「青手」、白い素地を残し色調は緑・黄・紫・群青・赤の「五彩手」とがある。古九谷様式を代表する重要文化財「色絵蝶牡丹図大鉢」は白地を多く残す五彩手の磁器で、中国絵画の影響を受けた花と蝶が力強く描かれたインパクトのある作品である。

その頃磁器の本家中国では明から清へと王朝の交代に際し、国内は混乱していた。そのため中国製の磁器は外国の需要に対応することができなくなっていた。一方景徳鎮を手本にしてきた日本の磁器の技術は大きく進歩していた。中国から思うように磁器が手に入らなかったため、東インド会社伊万里焼に注目し1650年代後半、大量に買い付けをしてヨーロッパに輸出を始める。日本国内に向けて作られた「古九谷」に対して、ヨーロッパの市場用に作り出されたのが「柿右衛門」である。「柿右衛門」の東洋趣味はヨーロッパで大変な人気を博し、17世紀後半伊万里焼は全盛期を迎える。

柿右衛門」として有名であるが、すべて柿右衛門個人の仕事ではなく、何人もの有田の陶工たちの手によって完成された様式であるため「柿右衛門様式」と呼ばれる。特徴は乳白色の素地に赤を主調とした中国絵画風の絵付けが施された洗礼された磁器である。さらに17世紀末には技術の進歩で純白に近い素地が作られるようになり、最高級品の磁器として制作された。大胆で力強く描かれ、同じ絵柄がほとんど見られない「古九谷様式」の磁器に比べ「柿右衛門様式」の磁器は、商品としての性格が強い。これはヨーロッパの需要に対応するため同じ品質で大量に製作する必要があったからである。

頂点を極めた伊万里焼は17世紀末「金襴手」の製作を始める。「金襴手」は中国明代の嘉靖年間に流行した中国金襴手を手本として成立した、金彩を使用した豪華絢爛な様式の磁器である。完成度が高く国内外の富裕層にもてはやされたが、特に華美な装飾を好むヨーロッパの王侯貴族から絶大な人気を得た。

 

このように日本初の磁器伊万里焼にはいくつか形式があるが、いずれも中国の影響受けて確立した。その後試行錯誤を重ねて日本的な繊細な色絵磁器に到達し、日本オリジナル製品として認められた。しかし海外で揺るぎない地位を築いたように見えた伊万里焼だったが、景徳鎮の輸出再開により激しい価格競争がおき、その結果1757年にオランダ東インド会社への輸出は停止する。

こうして盛期伊万里焼の時代は終わり、以降は国内に目を向けざるしかなく、庶民の食卓にも磁器が浸透していく。

また大名や将軍家に献上するために作られた高級磁器「鍋島焼」は、1670年代に大川内山に窯を開いた。以後も製陶の技術を受け継ぎ、現在も伊万里焼の中心地である。