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『ザ・ゲーム(The Game)』 クイーン

           

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 2018年末、フレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディー』の大ヒットで日本でも何度目かのブームが到来したクイーン。 「本国イギリスより先に日本で人気がでた」なんて言われているように元々日本人受けがいいバンドなんでビックリするほどのことじゃないが、それにしても根強い人気だ。

リード・ボーカルのフレディ・マーキュリーの死去から28年。今もこれだけ愛されてるなんて、あらためてクイーンって偉大なバンドだったんだと思う。

 

 

8thアルバム 『ザ・ゲーム』

 

 クイーン8枚目のオリジナル・アルバム『ザ・ゲーム』は1980年6月30日リリース。セールス的にアメリカで大成功をおさめ、最も売れたオリジナル・アルバムである。 

 

レコーディングは1979年6月から7月にかけて独ミュンヘンのミュージックランド・スタジオでラインハルト・マックを共同プロデューサーに迎えて行われた。

まず「愛という名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)」、「セイブ・ミー(Save Me)」、「スウィング・シスター(Sail Away Sweet Sister)」、「カミング・スーン(

Coming Soon)」の4曲がレコーディングされた。

この時のセッションから「愛という名の欲望」が10月5日にリリースされた。フレディによって超短時間で作られた曲で、意表を突いたエルビス・プレスリー風のロカビリー・ナンバー。翌年2月23日、ついにアメリカのビルボード誌で首位に上りつめる大ヒットとなった。

自身初の全米ナンバー1ヒットを生み出し、自分たちの音楽に確信を持ったであろう4人は再びミュージックランド・スタジオに入りレコーディングを開始する。

アルバムの残りの6曲はこの時レコーディングされ、前年の4曲と合わせてニュー・アルバム『ザ・ゲーム』が完成した。

  

 

   
   Queen - Crazy Little Thing Called Love (Official Video)

 

 

新しいクイーン

 

 1980年6月30日『ザ・ゲーム』リリース。シングル「愛という名の欲望」に続きアルバムでも初の全米ナンバー1を獲得する成功作になった。

この作品は79年と80年と間を開けて2度のレコーディングに臨むなど、今までとは違うアプローチで制作している。いわば80年代を迎えて新しいクイーンに進化を遂げるエポックとなったアルバムである。

サウンド面はこれまでギターを中心にした音作りにこだわり、シンセサイザーは不使用だったのだが、「プレイ・ザ・ゲーム」でついに解禁した。シンセサイザーサウンドで始まるこの曲はアルバムのオープニングを飾るだけでなく、先行シングルとしてもリリースされているあたりに新生クイーンをしっかりアピールする意思が感じられる。シングル・カットされた「プレイ・ザ・ゲーム」はサウンドだけでなくヴィジュアル的にも変化が打ち出された。レコード・ジャケットに登場したフレディは、その後の彼のトレード・マークとなる短髪に口ひげを初披露している。もしかしたらそれはサウンド以上に明確にファンにインパクトを与えてクイーンの変化を感じさせたかもしれない。

 

 

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2曲目の全米ナンバー1

 

 アルバムのリリース後にシングル・カットされたのが、ベースのジョン・ディーコン作曲の「地獄へ道づれ(Another One Bites The Dust)」だ。ブラック・ミュージック好きなジョンがシックのヒット曲「グッド・タイムス」の影響を感じさせる印象的なベース・ラインの曲だが、作者のジョンは当初レコーディングすらするつもりではなかったらしい。しかしフレディが是非ともレコーディングすべきだと主張し、さらにフレディと親交のあったマイケル・ジャクソンの強い勧めでシングル・カットに至った経緯があった。いざリリースすると2曲目の全米ナンバー1を得るだけにとどまらず、ブラック・ミュージックのチャートでも2位まで上るクイーン最大のヒットとなった。80年代に入り彼らのキャリアは一つのピークを迎えた

これまでアメリカでは今ひとつビッグ・ヒットに恵まれなかったクイーンだったが、ようやくアメリカのチャートを制覇した。クイーンの新たなチャレンジは本人たちの予想以上の成果を出し大きな自信も持っただろう。絶頂期のクイーンはサウンド・トラックフラッシュ・ゴードン』を挟み、次のオリジナル・アルバムではさらにクイーン流ブラック・ミュージックとシンセ・サウンドをフューチャーしていく。

 

クイーンのアルバムは良作が多く1番を選ぶのはあまり意味がない気がするが、個人的に『ザ・ゲーム』は最も聴いたアルバムの一つだ。アメリカでメガ・ヒットしただけあって割ととっつきやすいアルバムだと思います。

 

 

ザ・ゲーム

ザ・ゲーム

 

 

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『キャント・バイ・ミー・ラブ(Can't Buy Me Love)』 ビートルズ

       

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ビートルズ 6th シングル

 「キャント・バイ・ミー・ラブ(Can't Buy Me Love)」は1964年3月20日、パーロフォンからリリースされたビートルズ6枚目のシングルである。もちろんレノン・マッカートニー作詞作曲のオリジナル・ナンバーだ。おもにポールが書いた曲で、リード・ボーカルもポール。B面はやはりオリジナルの「ツー・キャン・ドゥ・ザット(You Can't Do That)」で、こちらはジョンがメインの曲である。

 

ビートルズを取り巻く状況

 セカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」のヒットで大ブレークしたビートルズだったが、アメリカではさっぱり売れなかった。

 ところが5枚目のシングル「抱きしめたい(I want To Hold Your Hand)」が1964年初頭から大ヒット。タイミングよく初訪米と重なり、イギリスから一年遅れてアメリカでブレークした。

 「キャント・バイ・ミー・ラブ」は空前のビートルズ・ブーム真っ只中にリリースされた。

 

レコーディング

 レコーディングは通例のEMIスタジオではなく、1月29日、パリにあるパテ・マルコーニ・スタジオで行われた。フランス、パリ公演の合間を縫ってのもので、「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー(She Loves You)」のドイツ語ヴァージョン(「Komm, Gib Mir Deine Hand」「Sie Liebt Dich」)のレコーディングが目的だった。レコーディングは短時間で終わったので、ついでに新曲のレコーディングに取り掛かった。

 ビートルズジョージ・マーティンは今回も曲構成に工夫を凝らし、イントロなしでいきなりポールのシャウトから始まりインパクトを出している。エンディングもポールのボーカルで締めている。

 ジョージのトレード・マーク、リッケンバッカー360/12がレコーディングで最初に使用された曲でもある。

 発売されたのはモノラル・ミックスだが、アルバム用にステレオ・ミックスも制作されている。ステレオ・ミックスではオーバーダビングしたジョージのギター・ソロに消去できなかったのか別テイクのギター・ソロの音もはっきり聞こえる。

 モノラルが主流だった当時ステレオ・ミックスはメンバーも立ち会わないなど軽視されていたようだが、「キャント・バイ・ミー・ラブ」のステレオも若干の仕事の雑さを感じる。

 

チャート制覇

 前述のようにアメリカでブレーク直後のリリースだったため、「キャント・バイ・ミー・ラブ」は予約発注だけで史上初の100万枚に達してしまった。これはギネス記録として認定され、さらにビルボードでは2週目で1位獲得という最短記録を樹立した。

 その1位を記録した4月4日、ビートルズ前人未到の記録を達成する。ビートルズの楽曲が、ビルボードのチャート上位5曲を独占するという快挙だ。ブレークにともない、過去見向きもされずに終わったシングルが遡って売れ始めたために起こった現象だ。

 

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   4月4日付 ビルボード・ホット100

 

 

ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Days Night))』

 

 同時期に撮影された映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の中でも挿入曲として使用されている。

 スタジオを抜け出したビートルズがグランドを走り回る有名なシーンのバックで流れていて、強く印象に残る。

 

 こうしてみると、やはり「キャント・バイ・ミー・ラブ」もビートルズを語る上では欠かせない代表曲のひとつだろう。 

 

 

 

 

 
The Beatles Can't Buy Me Love (live HD)

 

 

 

 

 

 

「ユー・リアリー・ガット・ミー (You Really Got Me)」キンクス

「ユー・リアリー・ガット・ミー」はイギリスのロック・バンド、キンクスの3枚目のシングルとして1964年8月4日に発売された。

MTV世代にはヴァン・ヘイレンのヴァージョンが馴染み深いかもしれないが、こちらのキンクスがオリジナル。

 

 

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キンクス、デビュー

 

60年代初頭、イギリスで起きたバンド・ブームは多くの若いバンドを生み出した。彼らはアメリカの黒人音楽から多大な影響を受け、ロックンロールやリズムアンドブルースをカバーしてしのぎを削っていた。トップランナーは1962年10月にメジャーデビューしたビートルズだ。

1963年に入るとビートルズの人気は急上昇。彼らの存在は社会現象となっていた。オーディションで落としてしまいビートルズを手に入れそこなったデッカ・レコードは、痛恨の判断ミスを取り返そうと63年8月にローリング・ストーンズを世に送り出した。

ブームは一過性のものなので人気が終焉してしまう前にとにかく乗っかろうとデッカ以外のレコード会社からも新人バンドが次々登場した。1964年2月7日、キンクスはパイ・レコードからリトル・リチャードのヒット曲のカバー「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」でデビューした。

 

 

デビューしたものの

 

パリのオランピア劇場でのビートルズのステージを観た興行主アーサー・ハウズのアドバイスにより選ばれたデビュー曲だったが、取り立てて目と新しさもなく残念ながらまったくヒットしなかった。発売日の2月7日はビートルズがニューヨークのケネディ空港に降り立った日である。

デビュー曲をカバーでコケてしまったキンクスの次のシングルは、レイのオリジナルナンバー。曲調はもろにマージー・ビートで、キンクスというよりNEMS所属のアーティストみたいだ。思い切りヒットを狙って作ったのだろうが、またも不発に終わってしまう。バンド・ブームの中でデビューしたものもう一つパッとしないキンクスだった。

 

 

後がないキンクス

 

先行のビートルズストーンズは絶好調でその差は開くいっぽう。早くもパイの上層部はキンクスのブレークはあきらめムードでもはや後がないキンクス。三枚目のシングルまでコケるとパイから契約を打ち切られるかもしれないというプレッシャーの中、レイは試行錯誤しながら曲作りを続けた。レコーディングは満足いくようなものではなく、何度も録り直しを行い最後はスタジオの費用をレイが負担してまで継続したようだった。そしてレイの執念は起死回生の一曲を生み出した。

 

 

ナンバーワンヒット

 

ついに完成した命運がかかった新曲「ユー・リアリー・ガット・ミー」が発表された。リリース直前、ビートルズと共演したステージで初披露し、観客のビートルマニアたちにも強烈なインパクトを与え反応は良かったようだ。

曲は直ちにチャート・インする念願の初ヒット、それも全英ナンバーワンまで駆け上がる特大ヒットとなった。さらにブリティッシュ・インベイジョンの後押しでアメリカでも大ヒットした。さすがにここまで売れるとはパイもキンクスも想定外だっただろう。

前2作はキンクスの個性も方向性もイマイチはっきりしなかったが、この曲でキンキー・サウンドと呼ばれるスタイルを確立して、他にはない存在のバンドとなった。

 

デイブが弾くディストーションを効かせた歪んだギター・リフが特徴的なサウンドは、傷つけたギター・アンプのスピーカーから発せられたものだった。

そしてこの激しいサウンドはその後のロックに大きな影響を与え続け、色褪せることのない永遠のロック・クラシックとして君臨している。

 

 

  
The Kinks - You Really Got Me (Official Audio)

 

 

ローリング・ストーンズの「サティスファクション」やザ・フーの「マイ・ジェネレーション」よりも1年も前にこんな曲を出しているとはレイ・デイビスは凄すぎる。「ヘビー・メタルの最も初期の1曲」とジョン・レノンが評しているビートルズの「涙の乗車券」すら8ヶ月後のリリースである。

 

 

ギターはジミー・ペイジ

 

レコーディングが難儀したための混乱か、まだ十代のデイブの演奏技術が信用されていなかったのか「ユー・リアリー・ガット・ミー」には長い間議論になった説がある。つまりあのパワフルなギターはデイブではなく、当時まだセッション・ミュージシャンだったジミー・ペイジが弾いているという話だ。レコーディングに参加したミュージシャンの証言もあって多くの人に信じられてきたようだが、現在は当事者たちに完全に否定され、正真正銘デイブの演奏と確定されている。(実際ジミー・ペイジキンクスの別の曲のレコーディングでギターをひいている。)またプロデューサーのシェル・タルミーの判断でドラムがミック・エイボリーではなくセッション・ミュージシャンが叩いている。

 

何はともあれ「ユー・リアリー・ガット・ミー」は間違いなくキンクスの傑作であり、ここからキンクスはヒット曲を連発して人気バンドの仲間入りを果たした。

 

   
the kinks- you really got me

 

 

 

キンクス+12

キンクス+12

 

 

 

 

Best of the Kinks 1964 71

Best of the Kinks 1964 71

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フロム・ミー・トゥー・ユー (From Me To You)」 ビートルズ

フロム・ミー・トゥー・ユー

 

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ビートルズの3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥー・ユー」は1963年4月11日発売

された。B面は「サンキュー・ガール」。

 

ヘレンシャピロのツアー中の2月28日、シュールズベリーへ向かうバスの中でジョンとポールによって作られた。

レコーディングは書かれてからわずか5日後の3月5日に行われた。この日のセッションでは「サンキュー・ガール」も同時にレコーディングした他に「ワン・アフター・909」も手がけたが、納得のいくパフォーマンスができなかったようでお蔵入りとなった。

その後「ワン・アフター・909」は「ゲット・バック・セッション」で再び取り上げられ、アルバム『レット・イット・ビー』に収録された。ちなみにこの日レコーディングされた63年ヴァージョンは32年を経て『アンソロジー 1』にて陽の目を見た。

 

ビートルマニア

 

元々イントロはギターだったがジョージ・マーティンのアドバイスでジョンによるハーモニカがオーバーダビングされた。マーティンのアイデアは上手くいき、この曲の魅力を引き立てとてもビートルズらしい仕上がりになった。

ポールはミドル・エイトでマイナーに変わる部分を自分たちの曲作りの大きな成長だととインタビューで答えている。

 

63年になるとビートルズの人気は一気に高まり、やがてイギリスにとどまらずヨーロッパ中に広がっていった。特に熱狂的なファンはビートルマニアと呼ばれ大きな話題となりビートルズの人気は社会現象となった。

「フロム・ミー・トゥー・ユー」「サンキュー・ガール」はタイトルが示す通りそんなファンに向けた感謝のメッセージだろう。この頃のビートルズはまだアーティストというより少女たちのアイドルだったのだ。

 

前作「プリーズ・プリーズ・ミー」はチャートによっては1位になっていなかったので(「レコード・リテイラー」では2位止まりだったため『1』には未収録だった)、「フロム・ミー・トゥー・ユー」こそが正真正銘最初の全英ナンバー・ワンである。しかしイギリスで大ヒットしたにもかかわらずアメリカではマイナーレーベルから「プリーズ・プリーズ・ミー」のB面でのリリースだったためにあまりヒットせず、さらに次作「シー・ラブズ・ユー」から特大ヒットが連発するため若干地味な印象となってしまった感がある「フロム・ミー・トゥー・ユー」だが、初期ビートルズを語る上で外せない重要な一曲であるだろう。

 

 
The Beatles - From Me To You

 

 

 

 

ロックと日本語

日本語ロック黎明期

 

日本人アーティストのロック・ミュージックというのも普通に聴かれるようになって久しい。そもそも今の若い世代は「このバンドがやってるのはロックか否か」なんてことは考えずに聴いているのだろう。いいと思った音楽をジャンルなんか関係なく聴くことは健康的だと思う。今はみんな音楽に変なこだわりも持たずにいろいろな曲を手軽に聴けるいい時代になった。

 

しかし今から50年近く前ロックが誕生してまだ日が浅かった頃、黎明期だった日本でははアンダーグランド的な特別なジャンルだったようだ。

1966年ビートルズの来日を機に多くの日本の若者も海外のロックをじゃんじゃん聴くようになった印象だったが、実際には洋楽ファンはあまりいなかったようで、ほとんどは歌謡曲やフォーク、GS等を好んで聴いていた。

 

当時の記事などを読むと確かにロック・ファンはマイノリティで音楽の話ができるクラスメートがいないなんて人も多かった。それだけにどこか選民思想のようなものが感じられる。

当時は、ロック=反体制 みたいな考え方もあったので、例えロックをやってたとしてもアーティストが酒もドラッグもやらず早寝早起きの健康的な生活をしていたとしたらそんな奴の音楽はロックと認めてもらえなかったのかもしれない。

 

GSブームが去った後、人気グループだったタイガース、スパイダース、テンプターズのメンバーが集まり本格的なロック・バンド「P・Y・G」を結成したが、ステージに立つとロック・ファンから物を投げられ罵声を浴びせかけられたそうだが、これはすでに芸能界で成功しているメンバーが大手芸能プロからデビューしたのにロック・バンドを名乗ったのが気に入らなかったからだろう。まさに音楽そのものじゃなくアーティストのバック・ボーンを重要視した一例だろう。

なんだか頑固でめんどくさそうな聴衆である。森高千里が「おじさん」って呼ぶわよと切り捨てたのはこういった人達だったんだろう。たぶん。

 

ロックを日本語で

 

日本人がロックをやる時おそらく一番大きな壁は言語だと思われた。英語圏で生まれたロックを日本語で再現するのは土台無理な話ではないのか。という時代だった。

 

日本人になじみの薄いアメリカのバンドの影響が強い先進的な日本のバンド、はっぴいえんどで作詞を担当していた松本隆は日本語をロックに乗せることに挑んでいた。サウンド志向の強い細野晴臣大瀧詠一はあまり賛成ではなかったようだが彼らの試みは大きな成果を挙げ「日本語ロックの第一人者」と称されるようになった。

この流れに日本語のロックはナンセンスという「ロックは英語派」アーティストが「日本語模索派」に物申し「日本語ロック論争」が巻き起こった。

 

「新宿プレイマップ」1970年10月号誌上では内田裕也大瀧詠一鈴木ヒロミツといった今じゃ考えられない面子で座談会をやっていてロックに対する考え方をそれぞれがはっきり主張している。

「ロックは英語派」の内田は日本にロックを持ち込んだ張本人という自負があるようで日本には日本語でロックを土着させようとする大瀧の意見が面白くなにかとイチャモンをつけている。一方大瀧は自分達がやりたい音楽を追求できれば他所のバンドにはあまり関心がないようで座談会ではあるが両者にはずい分温度差があるように感じる。しかし大瀧も喧嘩腰の内田に対して「でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか」と言って内田をキレさせてもいる。

パッション先行型の内田は、ロックだって興行的に成立させることを優先する現実的な鈴木にもダメだししている。晩年は人のいい明るいおじさんタレント的なキャラでテレビ出演していた鈴木ヒロミツだが対談時はバリバリのミュージシャンだったらしくジョン・レノンを彷彿させるビジュアルだったとは。

 

みんな言ってることは間違ってはないのだろうがロックとの向き合い方がまったく違うため「日本語ロック論争」ははっきり答えが出ないままだらだら続いていった。

 

フォーク・ソングのヒット

 

結局ロックは日本語でやれるのか。この問題はそれぞれの考え方があるからきっと正解はないのだと思う。しかし1971年11月に発表されたはっぴいえんどの『風街ろまん』は「日本語ロック」のひとつの到達点と評されしばらく続いた論争もフェイドアウトしていった。

 

この時代はロックに限らずフォークも反体制・反商業主義が求められた。そんな中強いメッセージがなく個人的なことを歌う吉田拓郎は異端でありジョイント・コンサートなどではPYGと同じように物が飛んできたり歌が聞こえないほどのブーイングを浴びた。

この時代の若者はなんでこんなに思考が凝り固まっているのか。せっかくコンサートに来たら楽しめばいいのに。それともこれが彼らなりの楽しみ方だったのか。

 

しかし72年春「結婚しようよ」が大ヒット、続く「旅の宿」もオリコン1位を獲得。吉田拓郎は一躍スターとなった。

政治的な匂いがしないフォーク・ソングのヒットは学生運動の終焉と重なり新しい時代の到来を告げた。またロックと違いアコーステック・ギター1本あれば誰でもすぐにできるフォーク・ミュージックは一気に浸透して多くの拓郎フォロワーを生み出した。

 

フォーク・ソングが続々とリリースされたが、同じ頃ロックの方はどうしていたのか。

今や伝説のバンドとなっている頭脳警察村八分など新しい世代が活躍していたが、一部で熱狂的に支持されていただけで一般の知名度はほとんどなかったと思われる。やはり日本のロック・バンドはメジャーにはなれないのか。

 

キャロル登場

 

吉田拓郎ブームの72年末、ロック・バンドのキャロルがデビューする。日本のポップ・ミュージック史の中でキャロルの登場はひとつのエポックだろう。

 

「日本語ロック論争」でぶつかり合ってた主張とはまったく別のアプローチで日本語ロックを提示してきたのだ。彼らのロックはもはや英語とか日本語とかにこだわる必要はないように感じさせる。というか彼ら自身言語の垣根を取っ払っていたんじゃないだろうか。

その詩は基本日本語だが所々英語詩が出てくるという今では普通の手法だが、おそらく当時は画期的な詩作だったろう。中心人物の矢沢永吉ジョニー大倉は曲作りで優先したのは詩の内容よりリスナーの耳にどう響くかだったろう。

実際大倉は著書の中でデビュー曲「ルイジアンナ」を英語で作詞してから日本語にしたと言っている。曲名にしてもルイジアナではなく敢えてルイジアンナにしたらしい。また歌唱法についても日本語も英語みたいに聞こえるように矢沢に注文したそうだ。

このようにかなり意識的に生み出された英語と日本語チャンポン・ロックは「日本語ロック論争」を過去のものにして、新たな「日本語ロック」の出発点だったともいえるのではないだろうか。

 

キャロルは音楽性だけでなく、時代錯誤なファッションや矢沢の強烈なキャラクターも相まって音楽ファンからはバカにされていたという話も聞くが、大きな功績を残したバンドだった。

矢沢は現在にいたるまでカリスマとして君臨しているが、相棒のジョニー大倉ももっと評価されてほしいものだ。

 

キャロルの存在は衝撃的で若者文化に大きな影響を与えたとはいえ、残念ながらロックが一気にメジャーになることはなかった。

 

 

 

ポール・マッカートニー 日本公演

 

ポール・マッカートニー 日本公演  今昔

ポール・マッカートニーの最新ツアー、フレッシュン・アップの日本公演が10月31日から東京ドームでスタートした。現在もツアーは続いておりポールは日本に滞在中である。76歳とは思えない充実した内容のパフォーマンスを繰り広げている。

しかしいつの間にやらポールのジャパン・ツアーも今回で7回目ということだ。30年くらい前まではポールやローリング・ストーンズのコンサートを日本で観るなんてほぼ絶望的だった。毎年のように日本に来てくれる最近のポールをみているとなんだか信じられないような話だ。当時はジュリー演じる主人公が個人で原爆を作り「ローリング・ストーンズの日本公演」を実現しろと政府を脅迫するような映画(『太陽を盗んだ男』)が制作されるような時代だったのだ。主人公の要求にきっと当時の若者は共感できたのだろう。

 

70年代のポール日本公演の顛末

 ビートルズが解散するとポールは新しいバンドウイングスを結成。このバンドでビートルズ中期以降やらなくなったツアーを開始した。70年代半ばにはビートルズに匹敵するほどに成長したウイングスのライブを日本で観たいというのは当然の流れだった。

1973年、すでにチケットが発売されていたがストーンズの日本公演が中止に。さらに75年にはウイングスの公演がチケット発売直前に中止になった。多くの日本人が待ち望んでいたにもかかわらずコンサートが行われなかったのは、彼らの大麻に関しての前科が原因だった。アルコールにはおおらかだが大麻には厳しかった日本政府が入国を許可しなかったためである。

しかしポール側も日本のファンもコンサートの実現をあきらめなかったようで、75年の中止から4年を経て、再び日本公演が決定する。今回は直前に中止になることはなく、1980年1月16日ポール・マッカートニー御一行は日本にやって来た。

 

一転、悪夢へ...

熱狂的な歓迎の中、今度は無事入国したと誰もが思っただろうが、お祭り気分は一瞬で悪夢となった。ビートルズの来日から13年半、待ちに待ったポールがついに日本に来たというのに、なんとスーツケースの中の大麻が発見されその場で逮捕されてしまった。コンサートは全日程キャンセルされ、ポールは実際に留置されてしまった。今度こそポールのステージを生で観覧するという日本のファンの夢は幻と化した。

ポール逮捕の報にすぐに取材に駆けつけた池上彰氏とポールが一緒に写った一枚が最近の池上さんの人気に伴ないあちこちで紹介されているがポールから見たらいい迷惑かもしれない。

そもそも過去の大麻の件がネックになり入国許可がなかなか下りなかったポールだけに、今回の逮捕の影響は大きく今後日本に来ることは絶望的になった。

 事件の後ウイングスは活動を休止したが、ポールはソロ・アルバム『マッカートニーⅡ』をリリース。シングル「カミング・アップ」とともに大ヒットとなり見事に復活した。勢いに乗ったポール次のアルバムの制作に取り掛かるが、その矢先の1980年12月8日、ジョン・レノンが暗殺されてしまった。悲しみのあまりポールはすべての活動をストップさせてしまった。翌年4月にはウイングス結成時からの重要なメンバー、デニー・レインが脱退を表明。ウイングスは事実上解散した。

 

ポールの80年代

ポールの70年代はビートルズの解散から始まったが、80年代はジョンの死とウイングス解散から始まったと言ってもいいだろう。

 決別した後もポールの中ではジョンは永遠のパートナーであり、いつかまた共演、共作する日が来ると思っていたのではないだろうか。そのジョンが亡くなってしまった今、ポールは共作者を探し始める。「エボニー・アンド・アイボリー」ではスティービー・ワンダー、「ガール・イズ・マイン」「セイ・セイ・セイ」ではマイケル・ジャクソンと組んで制作に臨んだ。同時に中年になったポールはビートルズだった過去も肯定的に受け入れられるようにもなりプロデュースをジョージ・マーティンに依頼してもいる。これらの曲はいずれも記録的なヒットとなったが、すでにスティービーもマイケルもポールに引けを取らないスーパースターであったため、一連の作品はポールが”新たなパートナー”と制作したというより”スーパースター同士の夢の競演”といったスポット的な作品なのであった。

次いでポールが共作者に選んだのは10ccのエリック・スチュワートだった。エリックはスティービーやマイケルと違い本格的な共作者としてアルバム制作にたずさわった。1986年に発表された『プレス・トゥ・プレイ』はエリックと共作したことで新しいポール・サウンドを聴かせてくれるとのことだったが、一般的な評価は高くなく、セールスも過去にないほど低迷した。ビートルズのデビュー以来四半世紀、ずっとトップを突っ走ってきたポールのキャリアに陰りを感じさせる時がきたのだった。

80年の日本公演の中止以降のポールは、デビュー以来初めてソロ・アーティストとして活動していた。作品制作のたびに共作者はいるものの継続した間柄ではなく、バックのメンバーもその都度集めていた。そのような環境のためポールは長い間ツアーに出ておらず、この時期ポールのライブは単発のチャリティーコンサートなどに限られられていた。その中のひとつ1986年6月の「プリンス・トラスト・コンサート」は今後のポールにとって重要なものになった。しばらくステージから遠ざかっていたポールは「プリンス・トラスト・コンサート」に出演したが、その時ステージの楽しさや興奮を完全に思い出したという。重要なのはこの体験がステージ復活の原点であり、89年からのワールド・ツアーに繋がっていくのである。

 

復活!ポール・マッカートニー

ツアーは行わないとはいえ、アルバム制作には意欲的なポールはいまだ共作者を求めていた。新たなるパートナーに選んだのはひと回りも年下のエルビス・コステロだった。相手が天下のポール・マッカートニーだろうがダメなものには遠慮なくダメ出しするコステロに、ポールはジョンを思い出したと言っている。また彼からヘフナーのベース・ギターの使用をさかんに勧められ、実際にヘフナーでレコーディングしている。コステロが自分の意見をはっきり口にすることが功を奏し、完成したアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は1989年6月にリリース。前作の不評を払拭する高い評価を得た。傑作アルバムを手土産にポール・マッカートニー復活、というムードが漂った。

 

ワールド・ツアー始動

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さらにポールはニュー・アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を引っさげてワールド・ツアーも復活させた。ツアーは1989年9月26日ノルウェーオスロから始まった。

久しぶりのツアーだった上にセット・リストの半数がビートルズの曲が占めたため、コンサートは各地で熱狂的に迎えられた。もちろん多くの日本のファンはこのコンサートを今度こそ日本で観たいと願っていた。しかし前回の逮捕が尾を引いて来日は相当厳しいということらしい。

ところで1989年という年は、解散が噂されたいたローリング・ストーンズが新作『スティール・ホイールズ」をリリース。夏には8年ぶりとなるワールド・ツアーをスタートさせていた。

奇しくも入国許可が下りない二大アーティストが同時期にツアーを始動させたのである。当然ストーンズの来日公演の期待も高まっていった。80年代が終わろうとしている中、日本ではストーンズやポールの日本公演実現のための署名運動も起こり、注目を集めた。

個人的にはアタマの固い日本政府が許可するとは思えなかったので日本公演はサッサとあきらめて海外で観ることにした。ポールが観れるなら日本でもアメリカでもどっちだっていいやって気持ちだった。アメリカのコンサートは観客のノリが日本とは全然違うのに少し驚いたが、より非日常感が増し興奮と感動で忘れがたい体験だった。

 

祝!ポール来日

帰ってきて聞かされたのは、なんとポール・マッカートニーの日本公演が決定したとのニュースだった。まさか本当に許可が下りたのか。ほぼあり得ないと思ってアメリカまで行ったが、その間に急展開したのか。仮に本当だとしてもポールの場合過去の件もあるし実際ライブが始まるまでどうなるか分からないから手放しで喜べない。二度あることは三度あるとも言われるし。とか思いつつも結局はポールの来日を心待ちにしていたのである。

遂に、1990年2月28日、今度こそ本当に成田空港に到着したポール・マッカートニーが日本に入国したのだった。

そして3月3日、日本人の長年にわたる夢だったポールのコンサート・ツアーの幕が上がった。

 

 

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『ルパン三世』 原作とアニメの違い

 

ルパン三世』は今や日本人なら誰もが知っているアニメだろう。現在アニメ・シリーズは第5シリーズまで放映されている他に、TVスペシャルや劇場版も数多く制作されている、人気作。主人公のルパン三世は天才的な大泥棒というアンチ・ヒーローである。

 

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           『ルパン三世』アニメ第1シリーズ

 

 

一番最初のアニメである第1シリーズが始まったのは1971年10月からで全23話が作られた。1971年に開始していたとはずい分歴史のある作品で、これだけ長期間続いているアニメなんて、他には『サザエさん』と『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズくらいじゃないだろうか。

 

アニメのコンセプトは原作のアダルトな雰囲気をそのまま持ち込んだ大人向けのアニメだったそうだが、視聴率がまったく振るわなかったために途中でテコ入れして低年齢層向けに路線変更したそうだ。しかし視聴率は多少上がったものの大きな人気は得られず、結局2クールで終了してしまった。

この第1シリーズをリアルタイムで観ることはできなかったが、番組終了後しばらくたつと平日の夕方やたらと再放送が流されていた。70年代後半、『ルパン三世』と『魔法使いサリー』の再放送はしょちゅうやっていて同じエピソードを何度も観た記憶がある。

しかしこの再放送ラッシュが功を奏して、本放送時にはパッとしなかったアニメ『ルパン三世』は子供たちを中心にガンガン人気が出てきた。

この第1シリーズは当初の意図通り大人っぽい作りで、ルパンたちは犯罪者なのにとにかくカッコよかった。特に子供たちにはクールでニヒル次元大介が一番人気があった気がする。オープニングやエンディングの曲が洋モノ風でこれがまたアダルトなイメージを後押しした。今でも第1シリーズの主題歌を覚えている人は多いだろう。

こんなもカッコよくて先進的な作品だったにもかかわらず成功しなかったのは、おそらく1971年には早すぎたアニメだったのだろう。きっとまだアニメなんて幼児が観るものという常識に固まっていて、大人たちは見もしないで敬遠したんじゃなかろうか。

 

      

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           『ルパン三世』アニメ第2シリーズ

 

ようやく火が付いた人気に乗って、第1シリーズ打ち切りから5年半を経て待望の第2シリーズがスタートした。

第2シリーズはレギュラーのメンツは同じなのだが、コミカルで親近感があるキャラクターになっていて、ルパン一味の盗みの舞台は日本にとどまらないなどエンターテインメント性が強い派手なシリーズになった。

第2シリーズが始まるとはルパン人気はさらに拡大し、1978年には劇場版が公開された。当時TVアニメがオリジナルの劇場版を制作するのはとても珍しかったので、『ルパン三世』の人気が凄いことになってる感があった。

ストーリーもアニメ映画にありがちなTV放送の総集編的なものではなく、完全オリジナル作品でTV版とは一線を画す高いクオリティだった。1時間半以上の長編でかなり見応えがあった分、観終わった時はぐったりと疲れてしまった。

劇場版第1弾は大ヒットを記録したため、翌年にはいまだ人気の高い宮崎駿監督作品『カリオストロの城』が公開された。

今も『ルパン三世』が続いているのは、TV第2シリーズと『カリオストロの城』が決定的だったんじゃないかと思う。これらによって『ルパン三世』は国民的な人気アニメになっんじゃないだろうか。

 

 

ところで『ルパン三世』とは元々はアニメではなく漫画なのだ。モンキー・パンチの原作で『漫画アクション』で1967年7月から連載が始まった。なんとルパンは50年以上前に誕生していたのだ。まさかもう一人のアンチ・ヒーロー『ゴルゴ13』よりも年上だったとは思いもしなかった。

 

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         『漫画アクション』1967年8月10日号

 

 

アニメですっかりルパン好きになっていたが、原作の連載はとっくに終わっていたので漫画版『ルパン三世』は一度も読んだことがなかった。ところがある日たまたま書店に『ルパン三世』のコミックスが並んでるのを見つけさっそく購入。してみたのだがアニメとはあまりにテイストが違うのに驚かされた。

ただ原作とアニメの違いなんてどんな作品にも見られることだ。前述の『サザエさん』や『ゲゲゲの鬼太郎』の最新シリーズなども、もはや原作とはかけ離れている。長く続けるにはやむを得ない宿命的なものなのかもしれない。しかし『ルパン三世』は初めからかなりギャップがあるんじゃないだろうか。いくら大人向けとはいえ、最初にTVアニメ化を考えた人の先見の明は恐れ入ります。

 

ストーリー的にはアニメで見た話もあったが、絵柄が全然違って読みにくいし、全体的にダークな雰囲気でちょっと薄気味悪い。峰不二子の出演シーンなど大人っぽいどころか完全に大人向けで、違う意味でアダルトな作品だった。やたら♂、♀の記号が絡むカットが出てくるが子どもにはさっぱり意味が分からなかった。それでもワイセツだということだけは分かるから、人気アニメ『ルパン三世』のコミックスなのに大人の前ではなんとなく読みにくかった覚えがある。

それでも漫画とアニメは別物と思ってどっちも楽しんで、結局コミックス全14巻買い揃えてしまった。さらに『新・ルパン三世』やら『ルパン小僧』なんかも継続して買っていた。

TVは繰り返し観たし映画館へも足を運んだ。コミックスも揃えたしフィギュアやグッズも買った。いろいろ思い返すと、子どもの頃ルパン三世が大好きだったのだ。

 

最近は漫画もアニメもすっかりご無沙汰だったけどこんな文章を書いていたら久しぶりに長編アニメでルパンを観たくなってきた。DVDレンタルなんてあるんだろうか。それとも原作のコミックス読むのももいいかもしれない。

 

 

ビートルズ アメリカ上陸

 

アメリカ進出の夢

そもそもどこまで本気だったか分からないが、ビートルズはデビュー前からアメリカ進出を視野に入れていたという。少なくともメジャーでのデビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」リリース以降はそれなりに本気で売り込んでいたようだ。

しかし1963年当時ポップ・ミュージック大国のアメリカでは、ほとんど相手にされずにいた。すでにイギリスでは社会現象にまでなっていたビートルズだったが、アメリカの音楽業界は彼らのサウンドを時代遅れとみなしていた。

それでもビートルズたちはアメリカ進出の夢をあきらめることはなかった。

 

 チャンス到来

ビートルズが所属するイギリスのEMIのアメリカでの販売元はキャピトル・レコードである。プロデューサーのジョージ・マーティンは新曲が完成するとキャピトルに聴かせてリリースを打診するもこれまで見送られてきた。アメリカの音楽を模倣したイギリスのポップ・バンドがアメリカで成功するなんて多くの人があり得ないと思っていたのだろう。

しかし成功を信じてあきらめなかったビートルズにチャンスが到来する。1963年の11月にリリースした5枚目のシングル「抱きしめたい」をロンドンでたまたま耳にしたキャピトル・レコードのA &Rマンの心を掴んだ。

A &Rマンのデイブ・デクスター・ジュニアはそれまでもイギリスから送られてくるビートルズの曲を聴いていたがアメリカでは絶対売れないとしてリリースを拒否してきた。ところが「抱きしめたい」を聴いてこれは売れると感じキャピトルからのリリースが決まった。

 

「抱きしめたい」ヒット

12月ついにビートルズはメジャー・レーベルから「抱きしめたい」をリリース。いざ発売するとなるとキャピトルは本腰を入れたプロモーションを始めた。

一方ビートルズ側の戦略はなにもレコード・リリースだけではなかった。アメリカで成功するためにいろいろと忙しく動いていた。まずニューヨークにある格式の高いカーネギー・ホールでのコンサートをやることだ。こっちはレコードと違いすんなり決まったらしい。行きがけの駄賃じゃないがこの時のアメリカ滞在時に人気バラエティ番組「エド・サリバン・ショー」に破格の条件での出演も取り付けた。コンサートのプロモーター、シド・バーンスタインや「エド・サリバン・ショー」のMC エド・サリバンはユダヤ人である。これらの契約にはマネージャーのブライアン・エプスタインもユダヤ人だったことが大きく影響したのだろう。

アメリカ上陸の準備は着実に整った。もう一つ必要なのはアメリカでの曲のヒットだ。

ビートルズの4人は超多忙だったため周りで進んでるプロジェクトをどこまで把握していたか分からないがコンサートのため滞在していたパリに吉報が届いた。

1964年2月1日、なんと「抱きしめたい」がビルボードのチャートで首位に立つという快挙を成し遂げた。1月18日にランクインからわずか2週間の超急上昇だ。ほんの少し前までほとんどの人が想像もしていなかったことが実現したのだ。ビートルズはパリのホテルの部屋で喜びを爆発させた。予想を上回る「抱きしめたい」の大ヒットはフランス公演の次に控えているアメリカ巡業の最高の追い風になった。

 

 2月7日 アメリカ上陸

フランス公演の後一旦イギリスに戻ったビートルズは遂にアメリカに飛び立った。

1位獲得直後の2月7日、ビートルズ御一行はニューヨークのケネディ空港に降り立った。この時出迎えたファンの歓声は凄まじくジョンは「大統領が乗ってるのかと思った」そうだ。この機には後にビートルズ解散の戦犯の1人になるフィル・スペクターが同乗していた。アメリカ行きが不安だったジョンが頼んだとか。

ケネディ空港では記者会見を開いたが当時のビートルズはまだ音楽的にはあまり評価されておらず奇妙なヘア・スタイルの方が関心を集めていた。そのため記者からはおかしな質問も飛んだ。

「髪の毛を切る予定は?」

と聞かれるとすかさずジョージ・ハリスン

「昨日切ったよ」

と切り返した。

「君たちはなぜ成功したのか?」

との質問にはジョンが

「それが分かればマネージャーになって稼ぐよ」

なんてサラッと答えている。

ウィットに富んだ4人の質疑応答はビートルズを厳しい目で見ていたアメリカの記者達にも好意的に受け入れられた。今のところビートルズアメリカ侵略は順調に進んでいるようだ。

 

エド・サリバン・ショー」出演

もはや伝説になっているが2月9日、ビートルズは「エド・サリバン・ショー」に出演した。

今や全米の注目を集めるビートルズの出演とあってこの日の番組の視聴率は72パーセントという驚異的な数字を叩き出した。そしてビートルズが演奏中はニューヨークでの少年犯罪が一件も起きなかったとも言われている。とにかくこの夜、動くビートルズを見るために約7500万人もの人がテレビの前にいたのだ。

ビートルズ訪米の騒動を描いたロバート・ゼメキスの「抱きしめたい」という映画はファンの視点から撮られていてビートルズ自身は出てこないところが面白い。小ネタもありでビートルズのファンなら楽しめる内容になっていると思う。

 

ビートルズが残していったもの

2月11日にはワシントン・コロシアムのコンサート、翌12日はカーネギー・ホールでのコンサートも大盛況だった。また15日付のビルボードのアルバム・チャートでアメリカ版『ウィズ・ザ・ビートルズ』である『ミート・ザ・ビートルズ』が1位を獲得。以後11週首位を守った。

ビートルズの初めてのアメリカ訪問は大成功に終わった。ビートルズの影響はあまりにも大きく、彼らの後を追うようにイギリスのグループがアメリカへ進出しチャートを席巻。ポップ・ミュージックの主流をガラリと変えてしまった。この現象は(第一次)ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれている。

既存のマスコミ等はこのビートルズ熱を一過性のものと見なしていたフシがあるが若者たちには計り知れないものを残した。70年代以降活躍するアーティストにはこの時ビートルズにインスパイアされた者も少なくない。ビートルズの出現は完全に新しい世代を生み出したと言っても過言ではないかもしれない。

もし4人がアメリカ進出を早々にあきらめていたら20世紀後半のポップ・ミュージックはずいぶん違うものになっていたかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

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『ウィズ・ザ・ビートルズ』 ビートルズ

 

ビートルズ セカンド・アルバム

『ウィズ・ザ・ビートルズ』は1963年11月22日3に発売されたビートルズのセカンド・アルバム。

レコーディングは1963年7月18日 「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」のセッションから始まりハードなスケジュールの合間をぬって3ヶ月かけて完成させた。

また5枚目のシングル「抱きしめたい」「ジス・ボーイ」もこの時のセッションの終盤でレコーディングされたもので、ちょうど4トラックのレコーディング機材が導入されたタイミングだった。トラック数が倍になったことでレコーディングの幅がグンと広がり、これからビートルズは革命的なレコーディングを成し遂げることは周知の通り。

 

 

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 チャート状況

発売時にはまだファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がチャートのトップにいたためにビートルズのアルバム同士で首位争いとなった。30週間トップに君臨していた『プリーズ・プリーズ・ミー』に取って代わって首位に立ち、そのまま21週間その座をキープした。なんとイギリスのアルバムチャートは1963年の春から丸一年ビートルズが独占した。

ちなみに『ウィズ・ザ・ビートルズ』を1位から引き摺り下ろしたのはローリング・ストーンズのデビュー・アルバムだ。さらにストーンズから『ア・ハード・デイズ・ナイト』が1位を奪い返した。

 

収録ナンバー 

 A面

   「イット・ウォント・ビー・ロング」

   「オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ」

   「オール・マイ・ラヴィング」

   「ドント・バザー・ミー」

   「リトル・チャイルド」

   「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」 

   「プリーズ・ミスター・ポストマン」 

 B面 

   「ロール・オーバー・ベートーベン」

   「ホールド・ミー・タイト」

   「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」

   「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」

   「デヴィル・イン・ハー・ハート」

   「ナット・ア・セカンド・タイム」

   「マネー」

   

前作ではポールのカウントで始まったが、このアルバムではいきなりジョンのシャウトから幕をあける。どちらもインパクトのあるオープニングだ。一発で聴くものの心を掴むための工夫が見て取れる。

勢いがありいかにもビートルズらしいコーラスの「イット・ウォント・ビー・ロング」の次もジョンのラブソング「オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ」。どこか「アンナ」彷彿させる曲調だ。

3曲目はポールの必殺ナンバー「オール・マイ・ラヴィング」。50年以上たった今観ても、『エド・サリバン・ショー』のオープニングを飾るこの曲でアメリカ中のティーンの女の子がポールに夢中になったのもよく分かる。3連符を弾くジョンのギターが聴き所。

続く「ドント・バザー・ミー」は若干地味な印象もなきにしもあらずだが、記念すべきジョージの第一作目の曲だ。当時『マージー・ビート』の編集長だったビル・ハリーから「ジョンやポールみたいに君も曲を書きなよ」とせっつかれたジョージはその返答として「僕にかまわないでくれ」、といったこの曲を作ったようだ。

「リトル・チャイルド」はジョンとポールの共作のナンバー。おおよその作詞はポールのようである。ここでのジョンは印象的なハーモニカを聴かせてくれる。

次の「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」のオリジナルはブロードウエイのミュージカル『ミュージックマン』の劇中歌。ビートルズはペギー・リーのバージョンを参考にカバーしている。またしてもポールの甘いボーカル・ナンバーで女の子たちをうっとりせた。

モータウンのガールズ・グループ、マーベレッツが1961年に全米No.1を獲得した大ヒット・ナンバーのカバー。初期のビートルズはカバー曲も多数レコーディングしているが、No.1ヒットのカバーを公式にリリースしたのはこの「プリーズ・ミスター・ポストマン」のみ。今やビートルズ・バージョンの方が有名かも。アナログではA面ラストの曲

B面の頭はジョージがリードの「ロール・オーバー・ベートーベン」。もちろんチャック・ベリーがオリジナル。ビートルズチャック・ベリーはジョン、リトル・リチャードがポール、カール・パーキンスがジョージがリード・ボーカルという役割だが今回歌うはジョージ。

軽快なポールの「ホールド・ミー・タイト」。元々はあの2月11日の『プリーズ・プリーズ・ミー』セッションで録音されたナンバー。この時ベストなテイクが録れなかったようでアルバムには収録されなかった。ビートルズはセカンド・アルバム用に再度レコーディングに臨み無事完成させた。

「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」はモータウン所属のミラクルズのカバー。R&Bチャート1位。ボーカルはジョン。ビートルズはブラック・ミュージックもよくカバーしているものの、ガールズ・グループやモータウン系に限られているところがストーンズを始めとするロンドン勢との違いか。

そのローリング・ストーンズのセカンド・シングル用にとジョンとポールがストーンズのメンバーの目の前で完成させたナンバー。当時のストーンズにはなかなか相性の良さそうなR&B。リンゴがボーカルのビートルズのセルフ・カバー。後に自分たちで曲を作るようになるミック・ジャガーキース・リチャーズはこの時あっという間に曲を完成させたジョンとポールに大きな影響を受けた。ビートルズ・バージョンはリンゴが歌うことで直接対決を回避したのか。

「デヴィル・イン・ハー・ハート」。またまた黒人ガールズ・グループ、ドネイズのカバー。しかし「プリーズ・ミスター・ポストマン」と違いまったく売れなかったかなりのマイナー曲。港町リバープールは船員たちが直接アメリカから持ち帰るマニアックなレコードも出回っていたようで、ビートルズは他のビート・バンドとの差別化もありヒット曲以外も積極的にレパートリーに取り入れていた。このアルバムでは3曲目となるジョージのリード・ボーカル。

B面6曲目に収められた「ナット・ア・セカンド・タイム」は、そのタイトルからも想像がつくジョンお得意の恨みがましい悲観的なナンバー。歌詞の内容はさておき『ザ・タイムズ』誌にエンディングが『マーラーの「大地の歌」と同じ終止法』と絶賛された名曲。しかし作曲者のジョンはそれがどういうことか分からなかったらしい。

アルバムの最後はパワフルなジョンのボーカルが冴える「マネー」だ。オリジナルはバレット・ストロングがモータウンの前身タムラ・レーベルから1959年にリリース。全米23位のスマッシュ・ヒットを記録した。ジョンのお気に入りナンバーのようで勝負がかかったデッか・オーディションでも披露しているが、万全な体調ではなかったのか声が出ていない。ジョンが歌うカバー曲でアルバムを締める構成は前作を踏襲したのだろうか。

 

驚異的な売り上げ

『ウィズ・ザ・ビートルズ』はビートルズが社会現象になり『プリーズ・プリーズ・ミー』と「シー・ラブズ・ユー」がチャートのトップを走っているタイミングでリリースされた。予約注文で30万枚に達し、エルビス・プレスリーの『ブルー・ハワイ』の予約注文記録を塗り替えた。発売されるとあまりの売れ行きにアルバムであるにもかかわらずシングル・チャートにもランクインしてこれも記録を塗り替えた。さらに二年後の1965年9月にはイギリス人アーティストとして初のミリオン・セラーを達成した。

 

タイトなスケジュールの中でのアルバム制作のためじっくり曲作りができず、全14曲中6曲がカバー曲であるがオリジナル曲と違和感なく並べられており、アルバムを通してビートルズとしか言えないオリジナリティが貫かれている。

またハードなレコーディングだったにもかかわらず、既発のシングルA/B面曲は一曲も収録されていないのはさすがだ。

 

 

ウィズ・ザ・ビートルズ

ウィズ・ザ・ビートルズ