『最後の将軍』 司馬遼太郎
最後の将軍
徳川15代目にして最後の将軍、徳川慶喜は1837年(天保8年)江戸小石川で生まれた。父は9代水戸藩主・徳川斉昭、母は有栖川宮織仁親王の娘 吉子女王。幼名・松平七郎麿。
明治を生き抜き、1913年(大正2年)77年の生涯を閉じた。
慶喜といえば大政奉還によって武家政治を終わらせた、弱体化する徳川幕府を象徴するような無能な将軍。その程度の印象でしかなかった。
しかし慶喜は無能どころか頭脳明晰、武芸に秀で「天性多芸で、できぬことがない男」だったようだ。水戸の藤田東湖は非凡の英傑と見ていた。
時代に翻弄され波乱の人生を送ることになるのも、優秀であるが故であった。
慶喜の人物像
慶喜は意外と長寿で77歳まで生きている。『最後の将軍』はその長い人生のうち、一橋家の家督をついでから「朝敵」になり歴史の表舞台から姿を消すまでの話である。
死後53年を経て執筆されたため、同時代の人たちは知りえなかった慶喜の人物像が描かれている。
1853年(嘉永6年)黒船が来航して開国を迫り日本中がひっくり返るような騒ぎのの中、12代将軍家慶が急逝。実子家定が次期将軍となるが、家定は病弱でまともに他人と会話もできないという。あまりのタイミングの将軍の死。世は混乱を深めていく。
ペルーの恫喝に屈し要求を受け入れる考えの幕閣に対し、尊王攘夷派は開国を断固反対、開国派と攘夷派で日本は割れる。
未曾有の国難の中、攘夷派から慶喜待望論が盛り上がる。尊王攘夷の牙城水戸藩に生まれた慶喜が将軍になる他に列国から日本を守る術はない。
ところが当の慶喜には自分を推す一派の行動は迷惑でしかない。すべてを持ち合わせた慶喜だが「不具かと思われるほど野心が欠落」しているのだ。
動乱の時代
尊王攘夷派が優勢であったが、一方で開国派も黙っていない。大老・井伊直弼の安政の大獄がはじまる。志士から大名、旗本、公卿まで攘夷派の多くが逮捕・処刑された。
慶喜を推す一者たちも処分され一橋派は失脚する。
この間に家定は亡くなり、反慶喜派の思惑通り14代将軍は家茂となった。
政治的野心のなかった慶喜だが、隠居慎の罪で一橋で謹慎していた。当然父斉昭も罰せられ、国許永蟄居と重いものだった。多くの志士たちから崇拝される斉昭はその分敵も多く、慶喜が忌み嫌われるのは斉昭の息子であることが大きかった。
動乱の世、桜田門外で攘夷派の志士たちに暗殺される。長州を中心に攘夷派の行動は先鋭化していった。
開国論者 慶喜
謹慎を解かれた慶喜への期待はさらに高まっていた。将軍後見職を受けると、攘夷派は狂喜したが、江戸城では「もはや徳川幕府は滅びるであろう」と落胆した。
しかし慶喜は「攘夷などできるか」と言って松平春嶽らを驚かせる。水戸藩邸で育てられたが欧米文明を好んだ慶喜は攘夷を決行してアメリカと戦になって勝ち目がないことが分かっていた。
幕末の動乱期はそれぞれの思惑から、一人の人間の考えが攘夷・開国と二転三転することも珍しくなく非常にややこしい。一人の人間の発言がいつの間にか正反対になることがよくある。
強硬な開国論者の慶喜も後に攘夷を主張して支持者たちから孤立する。腹の中に二心を抱いているといわれ、「二心殿」とあだ名された。
第15代将軍
1866年(慶応2年)7月家茂死去。またも大変な時に将軍が死んでしまった。
次こそはぜひ慶喜との要請も断固拒否するが「将軍職は継がぬが、徳川宗家は継ぐ」と妙な理論で、将軍空席のまま徳川宗家を継いだ。この理論はみなよく理解できなかったが、絶対将軍にならないわけじゃないんだ、と受けとった。
この後も動乱は続き、いつまでも将軍がいないのは不自然だと説かれいやいやながら、ついに将軍職を受けた。徳川幕府はもう長くはないと見ている慶喜だから、あくまでもいやいや引き受けたと強調し、いざという時の逃げを打っていた。
将軍就任のすぐ後、孝明天皇が病死した。佐幕派筆頭の孝明天皇が亡くなるとは。「幕府は終わった」と、慶喜は思った。
徳川幕府の終焉
孝明天皇亡き後、朝廷は薩摩の大久保一蔵や公卿の岩倉具視の言いなりとなっていった。岩倉が裏工作に暗躍しており、倒幕の勅命が下されれば幕府は朝敵である。
もはや時勢は倒幕である。慶喜ほどの人物でも時勢にはお手上げだ。幕府延命は絶望的となった。
この時、徳川家も薩長諸藩も生かす奇跡的な案が出た。土佐の坂本龍馬立案の大政奉還である。一つの妥協案ではあるが、土佐の山内容堂はしぶる薩摩を説得した。一方の慶喜は政治の実行力のない朝廷に政権を返しても実権は自分が握り続けると判断した。
こうして自ら政権を返上することで徳川家は危機を脱したが、260年余り続いた徳川幕府は終わった。
慶喜の心中
慶喜はたびたび主張を変えて周囲を振り回してる。動乱の世で主義主張を変えることなど珍しいことではないが、慶喜ほどの立場だと発言の影響が大きい。結局本心が分からず、反対派はもちろん支持者からも不信を買ってしまう。
自分から言い出した長州への大討込みだが、勅命まで出させたあげく突如中止を言い出した時は孝明天皇も激怒した。さすがの春嶽も「百の才知があって、ただ一つの胆力もない」といった。
薩摩の西郷吉之助、長州の木戸孝允からも恐れられていた慶喜の頭脳だったが、味方の理解を得られず孤立していく。
司馬遼太郎は慶喜の言動は頭が良すぎるためだとしている。慶喜だけ先の先を読んで動いてるため、なにを考えてるか分からないと思われてしまう。
また歴史主義者の慶喜は自分が歴史に書かれることを常に意識しており、なにより自分の名前が逆賊として歴史に残ることを恐れていたという。
1868年(慶応3年)正月、鳥羽・伏見で幕府軍と新政府軍が開戦。大阪城にいる慶喜は会津藩士を率いて出陣すると思われたが、闇に紛れ藩士を置き去りにして江戸へ帰ってしまう。
慶喜の心中はこのまま賊軍として戦い敗戦して歴史に汚名を残したくなっかたったがために敵前逃亡したのか。慶喜がいなくなったことに気づいた藩士たちの落胆は想像に難くない。
江戸に帰った慶喜は徹底して恭順を貫き通して生涯を送った。
慶喜が交戦せずに江戸城を明け渡したことが結果的に諸外国から日本を守ったとの見方もあるが、実際慶喜の読み通りだったのか。それとも単なる保身だったのか。側近ですら理解に苦しんだ慶喜の本心とはなんだったのだろうか。