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モーリス・ド・ヴラマンク フォーヴィスムの巨匠

 

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                        木立ち 1918年

生い立ち 

 

 モーリス・ド・ヴラマンクはフランスの画家でフォーヴィスム(野獣派)の中心のひとりである。。

 1976年、パリのレアールでヴァイオリン教師の父とピアノ教師の母の間に生まれた。

 音楽一家に育ったヴラマンクは幼少の頃より父からヴァイオリンを習っていたが、ヴラマンクは音楽家になる気などなく、自転車選手に憧れておりまだ絵は描いてなかった。

 

 

 16歳の時に家を飛び出しシャトーに移り住みこの頃から本格的に絵を描き始める。18歳でスザンヌ・ベルリーと結婚、子どもも授かった。憧れだった自転車選手などをして生計を立てていたが、20歳の時チフスにかかり自転車選手を断念しオーケストラのヴァイオリン奏者となった。

 自由主義者ヴラマンクは伝統を否定し、他人から指図されることを極端に嫌っていたためにこれまで正式に絵を学んだことはなかった。多少デッサンは習ったものの、完全な独学だった。

 

 ドランとの出会い

 

 転機は1900年に訪れる。兵役を終えシャトーへ帰る列車の中でアンドレ・ドランと運命的に出会う。偶然隣り合わせで座ったのだが、車中で二人は絵の話で盛り上がりすっかり意気投合したようだ。

 友人となったヴラマンクとドランは共同でアトリエを借りて制作を始める。翌年ヴァン・ゴッホ回顧展でドランからアンリ・マティスを紹介され、フォーヴィスムの中心人物3人は親交を持った。

 伝統的な画法を受け入れず自分の才能だけを信じたヴラマンクだが、ゴッホだけは特別な存在であり、初期の作品にはゴッホの影響が明らかである。

 

フォーヴィスム運動

 

 1905年、ドランやマティスと共にサロン・ドートンヌに参加するが、展示会は物議をかもす。原色を多用した大胆で強烈な色彩と力強く荒々しい筆使いの作品を前にした批評家のルイ・ヴォークセルは、まるで絵が襲い掛かってくるような迫力に「フォーブ(野獣)」と叫んだ。ここから彼らの前衛的な芸術活動はフォーヴィスムと呼んだ。

 

 フォーヴィスムに直接影響を与えたのは象徴主義の画家ギュスターブ・モローだ。彼が官立美術大学で教えたのは、様式を押し付けたり頭で考えたりするのではなく、個人個人の感情を重視しリアルな色彩ではなく心で感じた色彩で表現するということだった。ドランとマティスもモローの弟子の一人だった。

 

フォーヴィスム以降

 

 しかしフォーヴィスム運動はわずか3~4年の短命に終わり、彼らはそれぞれの道を歩き始める。

 まだ30歳になって間もないヴラマンクは、1908年頃から新たな自分のスタイルを模索していく。筆使いは力強くとも色彩は彩度が抑えられた落ち着いたものへと移行していく。作風はポール・セザンヌの影響が強く表れている。

 フォーヴィスム以降のヴラマンクは1913年に再びドラン、マティスと共同のアトリエで制作するが、1920年には敬愛するゴッホ終焉の地、オーヴェール=シュル=オワーズに居を構え2度目の結婚をしている。

 40歳を過ぎたヴラマンクの作品は年齢とともに成熟し重厚になっていったが、理論よりも感情を重視した画風は失っておらず、フォーヴィスムの精神は生涯持ち続けたのであろう。

 

文筆家として

 

 絵画や音楽などマルチな才能を持つヴラマンクは、詩や文章も数多く残している。フォーヴィスムと入れ替わるように世に出たのがキュビズムだが、形状を重視し、計算された画面構成をヴラマンクは毛嫌いしていた。文筆家のヴラマンクは雑誌上でピカソキュビズムの考えを認めず激しく攻撃する文章を書いた。

 

晩年

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 50歳代になったヴラマンクはパリ郊外に移り住み、妻と暮らしながら周辺の景色を描いた。

 そして1958年、この地で82年の生涯を閉じた。