キンタメ

distractions ~ディストラクションズ 気晴らしブログ~

音楽、映画、漫画などの昔のネタを気ままにマイペースでやってるブログです。

ザ・フー 年寄りになる前に死にたいぜ

  イギリス3大バンド

  ロジャー・ダルトリーピート・タウンゼントジョン・エントウィッスルキース・ムーンを擁するイギリス最古のロック・バンドのひとつザ・フーは、ビートルズローリング・ストーンズと並んでイギリス3大バンドのひとつと称される偉大な存在だ 。

 

 そのビートルズストーンズと同じようにザ・フーのメンバーも’50年代半ば以降イギリスを襲ったスキッフル~ロックンロールのブームを受けミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。

10代の半ばに音楽を始めプロ・ミュージシャンを夢見ていたロジャー・ダルトリーが、後輩のジョン・エントウィッスルを自分のバンドに誘った時からザ・フーの歴史は始まる。

 翌1962年ジョンのバンド仲間だったピート・タウンゼントが加わりザ・フーの原形がほぼ固まった。ドラムがキース・ムーンになるのはもう少し先。時期的にはデビュー直前のビートルズがドラムをリンゴ・スターにチェンジした頃だが 、今も昔も腕利きのドラマーを見つけ出すことにバンドは苦労するようだ。

 

 絶対的リーダー ロジャー・ダルトリー


 バンドこの頃もまだ ディトワーズと名乗り、オリジナルの曲を作る意識はあまりなくヒット曲のカバーをレパートリーの中心にしていた。バンド初期の”絶対的リーダー”ロジャーの取り決めで、レパートリーは彼の音域で歌える曲に限られていた。

 またメンバーはそれぞれ本業を持っていたためフルタイムでのバンド活動は困難だったため、必然的に休日や仕事が終わってからという限定的なものだった。

 ロジャーは本業の板金でたびたび手を負傷したために、ギターをやめてリード・ボーカル一本にした。

 

 1964年になると彼らはディトワーズという同名のバンドの存在を知り、バンド名を変更する。決定権はもちろんリーダーのロジャーが握っているので、彼の鶴の一声で ザ・フーというちょっと風変わりな名前に決まった。これが転機となったのか一気にデビューへの道が開いていった。

 

ザ・フー始動

 

 ザ・フーと改名して始動して間もなくヘルムート・ゴードンとマネジメント契約を結び、彼が雇い入れたピーター・ミーデンの仕事が実を結びトントン拍子でレコード・デビューが現実的になってきた。

 

 同じ頃バンドは長らく一緒にやっていたドラムのダグ・サンダムの脱退によりドラマーが固定していなかった。この問題も一晩でケリをつけた。

 ある夜のライブ中「自分の方がドラムが上手い」と言って観客の一人がステージに上がってきて演奏を始めるた。彼のテクニックとドラム叩き壊すドラミングにメンバーは度肝を抜かれた。その観客こそキース・ムーンだった。

 ちょっとできすぎた感もあるが、この夜ザ・フーの運命は決まった。ザ・フーの正ドラマーはキースをおいて他になかった。

 最後のメンバー、キースの加入で遂に最強の4人が揃い本格的にザ・フーが始動した。

 

モッズ・バンド ハイ・ナンバーズ


 ピーター・ミーデンはザ・フーを若者の間で流行しているモッズに仕上げ、バンド名もモッズ的なハイ・ナンバーズに変更させ、ビートルズともストーンズとも違った個性のポップ・スターとして売り込んだ。

 ローリング・ストーンズキース・リチャーズが’60年代はバンドのイメージや雰囲気が大事だったと言ってるが、ホントにイメージ戦略は重要だったのだ(’60年代に限らず現代でも重要ではある)。

 ヘルムート・ゴードンと契約し、キース・ムーンがメンバーになってわずか数ヶ月後の1964年7月3日、ザ・フーはハイ・ナンバーズ名義の「ズート・スーツ」でレコードデビュー。しかし念願のデビュー曲はまったくの不発に終わりメンバーはもちろん必死に売り込みをしたピーターもガックリ。

 

 一方この頃ロック・バンドのドキュメンタリー映画を構想していたキッド・ランバートはハイ・ナンバーズの破壊的なステージに衝撃を受け、すぐに映画作りの仲間のクリス・スタンプと一緒に連絡を取り、ハイ・ナンバーズと面会した。バンドはすぐにキッドとクリスと手を組んだわけではなかったが、ピーターのやり方に不満を持っていたので最終的にゴードン・ミーデンからランバート・スタンプへ乗り換えた。

 

 

ハイ・ナンバーズから再びザ・フー

   

 キッド・ランバートと新たにマネジメント契約をしたハイ・ナンバーズは再びザ・フーに改名して出直した。あるオーディションを受けたことがきっかけでプロデューサーのシェル・タルミーと契約する。そして1965年1月ブランズウィック・レコードから 「アイ・キャント・エクスプレイン」で今度は正真正銘ザ・フーとして再デビュー。

マチュア時代はカバー曲ばかり取り上げていたが「アイ・キャント・エクスプレイン」はピートのオリジナル曲。同時代のストーンズキンクスもデビュー時はカバー曲だっのに、デビューからオリジナル曲で勝負に出るのはなかなかのチャレンジャーだ。

 「アイ・キャント・エクスプレイン」のレコーディングにはヤードバーズ加入前のジミー・ペイジもギターで参加していたそうだがどのフレーズを弾いたのかどうもはっきりしない。

 

 再デビュー曲は無事トップテン入りを果たし、暴力的な激しいステージングも話題になりたちまち人気に火がついた。ピーター・ミーデンの狙い通りビートルズストーンズじゃ飽き足らない若者たちから熱狂的に支持され、イースト・エンドのスモール・フェイシズとウエスト・エンドのザ・フーはモッズ・カルチャーを代表するヒーローに祭り上げられた。

 

「マイ・ジェネレーション」


セカンド・シングル「エニウェイ・エニハウ・エニホエア」もスマッシュ・ヒットさせたザ・フーは 65年10月29日サード・シングル「マイ・ジェネレーション」をリリースする。

 この曲もピートのオリジナルで「年寄りになる前に死にたいのが俺たちの世代だ」、というティーンエージャーの普遍的な気持ちを代弁した内容と激しく攻撃的なサウンドで全英2位の大ヒットナンバーとなった。同時期発売のストーンズの「サティスファクション」と同様にストレートな若者の怒りの表現は時代を越えたものであり、今でも通用するメッセージだろう。その激しく性急なサウンドはパンクの元祖とも言われており、ザ・フーはモッズだけでなくパンクスからもリスペクトされる。

 

「マイ・ジェネレーション」の大ヒットでトップ・バンドの仲間入りを果たしたのだが、この当時バンド内の人間関係は最悪で、ロジャーが解雇寸前までいったり、キースが脱退を考えたり、いつ解散してもおかしくないような状態だった。しかしブレーク真っ最中だったためまさか解散するわけもいかず、キッド・ランバートの説得でギリギリで続けていたのであった。

 

マイ・ジェネレイション+12

マイ・ジェネレイション+12